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徒花の幸福★
夏と呼ばれる賑やかな季節を終えたニーベルクは、暫く未練を引くような気候が続き、緩やかに短い秋を送ると駆け足で冬へ主役を渡す。厳しくは無いが長い長い冬がやって来る。今が正にその主役を交代する頃だった。
悦びへ共に駆け上がり享受した二人は、じっとりと汗ばんだ素肌を合わせ、音もなく静かに退いてゆく歓喜の波までも愉しむように、暫く沈黙で抱き合っていた。
武尊と共に法悦を極め、乱れた鼓動の内に起き上がった白露が、武尊の穢れを手拭いで拭っていると、その手はそっと抑えられた。
「もうそんなことはするな――お前を買うのは……もう辞めようと思う──」
武尊の眼差しは穏やかで、声は優しく閨に響いたが、咎められたと思い違った白露は、謝罪を口にしながら手を引っ込めた。ゆっくり背中を向けて、武尊の言葉を胸へ呼び戻し、
(そう……旦那さんには戻る国があるのだから──)
また別れが来るのだと、素直に理解して悲しく嘲うと、急に背後から強く抱き締められた。
「もう俺だけになるんだ。身体だけでは無く──全部だ」
振り返ろうとした白露の動作を阻んだ武尊は、抱き締める腕に力を込めた。
「……俺と一緒に日本へ行こう──もう、二度とお前と離れたくない」
後ろから抱き締められる白露には、武尊の顔は見えないが、真摯な思いは、頬を撫でる熱い吐息と、微かに震える声音から充分に伝わり、同時と遣り切れない想いが押し寄せて来て、白露の胸を苦しめた。
「──お気持ち……だけで」
辛うじて言葉にした白露だが、大きな手で身体を返されると、泣き出しそうに哀しみを湛えた武尊の双眸に射竦められ、驚きに思わず顔を伏せてしまった。
「嫌なのか? 俺と日本で暮らすのは」
白露の顔を覗き込んで尋ねた武尊の言葉は、間違いなく求愛の響きを連れていた。身請けの同意を問われた白露は、武尊の視線から逃げたが、逸らしても逸らしても、追い縋って来る熱い眼差しに、何度も言葉を飲み込み、漸く一言『嫌です』と声にした。
それを聞いた途端、武尊の裡に、衝撃と落胆が混じり合った複雑な感情が起こり、『どうして』と言う言葉は即座に噛み潰された。
沈黙に馴染んだ二人の耳に、扉を隔て、前の廊下を歩く気配と一緒に、徒花と客が睦み合う、甘い戯れ言が聞こえて来た。愉し気に微笑い合う声が少しずつ遠去かったが、一階へ降りる階段の辺りで、折り返して来た声が、床の軋みと共にまた近付いて来て、忘れ物をしたと慌てる客の声が聞こえて来た。
「あらまぁ──戻るならば、もう少し遊んでいって下さいな」
艶言葉を絡めた徒花の笑いが、閨で気不味い空気に包まれた二人の耳に、何時までも虚しく響いた。
白露には軽く拒否されたものの、身請けを諦め切れない武尊は、濤声楼に通い、白露をやんわり口説き続けていた。どうにかならないものかと朝霧に相談するも、徒花の同意が無ければ、身請けは叶わないのがこの店の掟だと、軽く遇われわてしまった。
深い落胆を胸に、世間が自分を言う悪いイメージが今更ながらに武尊を悩ませた。『ろくでなし』『極道くずれ』『前科者』と浮かぶ言葉は辛辣だが、全て正しく自分を言い表す言葉だった。
(惚れられても──迷惑だよな)
小さく嘲った武尊は首を振り、
「俺との未来に、幸せなんか見えねぇもんな」
自嘲を吐き捨て、ククク──と喉を鳴らすと、
「旦那さん、白露は何て言ってるんだい?」
唐突に朝霧が口を開いた。
「ただ一言『嫌だ』と──何度尋いても、首を振り『嫌だ』としか言ってはくれない」
朝霧の口添えが貰えるなどとは思わない武尊だが、口調はまるで、救いを求めるかの調子になっていた。それに対して、朝霧は一言『そうかい』と言っただけだった。
「濤声楼のルールだからね。白露が望まない身請けは無いよ。白露の心を動かすもの──それを見付けることだね」
冷たい響きの言葉に、武尊が顔を曇らせると、
「白露に『嫌だ』と言わせる気持ち──あたしは何となく判るね」
億劫そうに帳簿を片付けながら、朝霧はチラ──と武尊の顔を盗み見た。
「俺が……俺なんかじゃ信用出来ない……か?」
武尊が嘲うと、『そうじゃぁ無いよ』と朝霧は呆れ顔で嗤った。
「それを見付けられれば、白露の心は動くよ。これ以上は言わない。恩塚様が辿り着けなければ、意味が無いんだもの──」
新しい帳簿を開きながら、『見付けてやっておくれよ』と逆に武尊が懇願されてしまった。
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