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幸福の女神
悪路に嵌まり、大きく馬車が揺れたことで、武尊は緩やかに微睡みから醒め、視線を巡らせると辺りは夕暮れ、馬車は、『日本街』のメインストリートへ繋がる小路へ、頭を突っ込んだ処だった。
ニーベルクの観光名所『日本街』は、独特な地区で、電車やバスは勿論、車など、エンジンを搭載した乗り物の乗り入れを禁じられていた。交通手段は馬車一択で、馬車も、『日本街』の名物で馬車曳きは花形職業だった。
饒舌な馬車曳きは、乗車時からずっと、武尊に話し掛けていたらしく、
「──ですから、祭りが始まる前に、この道も整備されて良くなりゃしますが、何せ地盤が悪いもんで、また一年も経てばこの通りでさぁ」
威勢良く掛け声を飛ばして馬を操り、ご機嫌な調子に話を続けた。
「来週には工事が始まりますから、そしたら、結構迂回せにゃならんのですわ──」
来月早々に始まると言う、『幸福の女神祭』は、家柄問わず、美しいと評判の娘をその年の『女神』とし、『女神』を讃えることで、これから訪れる長い冬季を、明るく穏やかに過ごせるようにと祈る祭りで、沢山の観光客を呼び込む、毎年恒例の大きな祭りだ。
ただでさえ、美人の産出国として有名なニーベルクで、『女神』に選ばれると言うことは、ミス・ワールドに抜擢されるに等しい名誉だと、女児を授かった瞬間から、何れは『女神』にと親は願うのだ。
武尊の亡妻、クラウディアも、日本へ来る前の年に『女神』に選ばれ、祭りが始まるより先に、親戚縁者が集まり、『幸福の女神に選ばれました祭』が行われたほどの名誉だったのだと、笑っていた。照れと困惑を眉間に浮かべて笑った妻を思い出し、『なにが幸福の女神だ』と呟き、続けて『こんな男に捕まっちまって──』と武尊は嘲いを溢した。
「──ここぞとばかりに、大規模な工事になりますから、お急ぎの時は余分に時間を見て下さいよ」
依然馬車曳きの口振りは、この通りが、通行出来なくなる煩わしさに難を呟く風だが、口許を綻ばせるのは、毎年『女神』に抜擢される娘を、拝む楽しみ故だろうか。
「今年の『女神』は娘盛りの、相当な美人って噂だ──今から楽しみで、ほれ、夜に酒場にでも行ってみなっせ、今はその話で持ちきりだ」
やはり予想した通りに、話の矛先がそこへ向かい、武尊の胸に笑いが起こった。
「昨年の『女神』も、少し年嵩さだったけど、それはそれは美しい女だったですよ」
曲がり角に進路を取り、馬車曳きが顔を振ると、嬉々とした笑顔が街灯に照らされ、目を遣った武尊の視線に気付くと、
「ニーベルクの女は、気立ても良くて美しい──家内も、出会った頃は、声も掛けられねぇくらいの美人で……あれから随分太っちまいましたが、それでもキレイなもんですわ」
照れであるのだろうか、馬車曳きは暫く黙り、馬に鞭打つ音だけを響かせた。
「眺めるには『女神』が良いが、家内が一番可愛いですわ」
話を重ねる内に、家で待つ女房に想いが募ったのだろう。
「親父さんは……どんな風に、奥さんを口説いたんだい?」
ふと思い立って、武尊がそんな言葉を振ってみると、
「そりゃぁ、押せ押せですわ」
馬車曳きは、意気揚々と声を返した。
「──押せ押せ?」
言葉をそのまま返し、疑問を見せた武尊を笑い、馬車曳きは、掛け声を張って馬を打った。
「あはは、冗談ですって。女ってのは……面倒臭いもんですね。こっちの持ち駒全部見せても靡きません──」
弱々しく語尾を暈したが、言葉を続けた。
「愛してると、何よりも愛しているんだと、良く判らせることですわ」
暫く走って、濤声楼が見越せる通りに出ると、手綱を引いて馬を減速させた。
「愛だなんて──どうやって判らすんだ」
呆れたようにぼやいた武尊を、軽く非難するように馬車曳きは唸り、
「相手の娘さんが、旦那の愛を受け取る気が無きゃ、話にもなりませんがね──見付けるんですよ」
奇しくもあの日、朝霧が口にした言葉を聞いて、武尊が肩を竦めると、
「それで取り除いてやるんですよ、不安と恐がってるもん全部。先ずはそこからでしょう?」
馬車は、歓楽街らしいネオンが目立つエリアに入り、一際豪華な濤声楼の看板が見えて来た。行く先を知っている馬車曳きは、
「濤声楼の娼婦に、愛を判らすのは大変でしょうが、飾っちゃいけません、飾るのは嘘と同じですからね」
話を切り上げる口調で、目的地への到着を告げると、馬車を停め、代金を渡した武尊に、『大丈夫、見付かります』と笑った。
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