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 白露へ顔を向けた武尊は、小さく手を上げて『よぅ』と言った。何時もの仕種が白露には嬉しくて、思わず瞳に涙が浮かぶ。 (私は、愛してしまった)  離れて尚募る想いに苦しみ、数ヶ月。忘れてしまえればと、涙で手放した想いだった。気紛れに徒花として(りょう)に買われ、哀しみを抱き締めた肉体(からだ)を、嫌と言うほど蔑まれ、遥風(はるかぜ)には徒花のプライドを問われた──そうして思い知った、中途半端な己の情けなさ。愛を覚えた自分の悲しみと、底無しの惨め。そんな白露を身請けしたいと、武尊は言い出した。 (頷ける訳無い──)  そっと奥歯を噛み締め、白露は首を横へ振り続けた。今夜もそう問われて、首を横へ振る自分を思い、胸は嵐のように騒めいた。  朝霧(あさぎり)に渡された鍵札を受け取ると、武尊に腰を抱かれ戸惑う間もなく口唇を重ねられた。  閨に運び何時ものように身体を重ね、花を穿ちながら、武尊は白露に問う──『俺が、好きなんだろう?』と、武尊を求めて開く花を責めるように。きつく抱き締められ、項に囁かれながら、白露の花は応えるように震える。  それは、『あなたが好きだ』と『愛しているのだ』と、肉体(からだ)が武尊に返す言葉だった。それでいて、全てを委ねない白露に焦れながら、武尊は想いの全てを吐き出すように、愛しい花へ精を放った。  歓喜(よろこび)を尽くし、脱力に横倒わる白露を、閨に残して起き上がった武尊は、立ち上がり窓辺へ佇んだ。僅かに後ろを振り向き、慌てて起き上がろうと、動作を起こす白露を制し、『落ち着いたらここへ来い』と誘い、窓辺に寄せた藤の椅子に腰掛け、夜空を見上げた。  武尊が視線を流して月を探すと、右手の低い位置、雲の切れ間へ隠れるように、その姿があった。  (はず)かしそうに、雲の隙間から武尊に顔を見せた満月は、無数の星を引き連れて夜空に浮かんでいる。  冴え冴えとした光り、それでいて、見た者をホッとさせる優しさ──武尊は月が大好きだった。  月は、見上げる武尊の心情を理解(しる)ようで、時に力強く武尊を励まし、或いは淋し気に霞んで消えそうだったり──夜毎煌めく星に讃えられ、見上げた武尊の胸に、時に苦しい記憶を呼び戻す──  心の空虚に耐えきれず、我が身に区別(けじめ)をと、ニーベルクへ来た日。旧友、箱崎(はこざき)から譲り受た銃を額に構え、指先へほんの僅かな力を込めれば、全てが終わるはずだった──けれど、武尊は白露と出会い、自分の裡にまだ息づく愛を知った。溢れる思いを持て余し、気付けば月に問い掛けていた──。  夜空の月に問う密かな時間は、特別なひと時だった。そして、その特別なひと時も含め、白露と過ごしたいと思っての身請けだった。  ゆっくり閨から出て来た白露を呼び、膝に座らせると胸に抱いて、武尊は天空の月へ目を戻した。 「美しいな──俺は今まで(あれ)に、沢山のことを話して来た」  武尊の穏やかな声を、頬を預けた胸から白露は聞き、静かに目を閉じた。穏やかな呼吸と、トクトクと規則的に鳴る心臓の音──心地悦い響き。白露は、目を閉じて聴き入っていた。 「お前のことも、沢山聞かせた──離れていた夜……」  大きな手の掌で、白露の頭を抑えてしまった武尊は、ひとつ深く息を吸い込んだ。 「駄目なのか? 一緒にいたい……そんな理由じゃぁ」  吐き出した言葉は、微かに震えていた。  穏やかな口調に、武尊の揺るぎ無い想いが強く合わさり、白露の胸に忍び込んで来る。顔を振って、抱き締める腕から逃げた白露は、『嫌です』と何時もの言葉を返す。嗤った武尊は、膝から逃げる白露の腕を捕まえ、膝上に戻し、  「俺は──王様でもなきゃ、どっかの大臣でも、富豪のお偉いさんでも無い。ごらんの通りだ」  白露の言葉を聞かなかったように、話を続けた。 「借金も無いが、大した財産も無い。そんな俺からプロポーズされても、お前は迷惑だろうが──」 「……プロポーズ?」  その単語に驚いた白露が、武尊の胸に手を着いて、身体を離した。 「そうだ、プロポーズだ。笑うか?」  真摯な眼差しが煙たいように、顔を背向けた武尊だったが、視線の先の夜空を見遣り、馬車曳きが語った言葉を思い出すと、面映ゆく、ずっと避けて来た言葉が、スルリ──と口を滑り出した。 「なんにも無い俺だが、お前が欲しい──離れて判った。俺は、お前じゃなきゃ駄目だ……駄目なんだ」    目を瞠った白露の、微かに動いた口唇を見て、『今は聞きたくない』と嗤った武尊は、背後からそっと抱き締めた。 「こうして夜空を、月を、星を……二人で眺めたい──何時までも」  言葉を切って深く息を吐いた武尊は、『俺なんかとじゃ嫌か』と尋いた。
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