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餞
身請け話が整った白露は、もう濤声楼の雑用係では無くなり、武尊と共に、日本へ渡る準備に忙しかった。
この日は、寒い冬が始まった日本へ赴く為に、季節の衣服選びに、武尊に手を引かれ、ショッピングモールへ遣って来た。
白露が娼館、濤声楼の門を潜り出たのは、これで三度目──。初夏の陽射しの元、クルーズ船遊びに連れ出された時と、熱に倒れ、入院をした時だけで、こうして華やぐ街を歩くのは初めてだと、興奮が白露の頬を上気させていた。
この日の白露は、朝霧が用意してくれた、簡素な練色(灰色掛かった淡い黄色)のワンピースに、サイズが大きく、随分肩の下がった、古めかしいツイードのジャケット。袖が何重にも折り捲られて、如何にも借り物の衣装だった。
背の高い武尊の腕に、ぶら下がるように獅噛み付き、右へ左へ、白露の視線は休むこと無く、随分忙しく彷徨っていた。人と擦れ違う度、ビクン──と身を震わせ驚く白露に、武尊は堪らず声を発てて笑ってしまった。
「落ちつけ。誰もお前を取って喰いはしないから」
優しく窘めると、羞ずかしそうに『はい』と応え、ジッ──と注がれる視線に気付き、不意に歩みを止めた。武尊も気付き、目を凝らすと、視線を受けた女性は、小さくお辞儀をして笑顔を見せた。
「──クリスさん!」
叫んだ白露が、武尊の腕を離して走り出した。
その美しい女性は、白露が入院した際、同室であれこれ世話を焼いてくれた、クリス・ティヴィルだった。
「朝美ちゃん、久しぶり。良かった、元気そう」
白露の手を取り、笑顔を弾けさせたクリスは、武尊に向けて、『お久しぶりです』と微笑み薄うっすら頬を赤くした。
入院中、戸籍を持たない白露は、まさか徒花として付けられた呼び名を、そのまま名乗る訳にも行かず、便宜上、朝霧の本名『福永 朝美』を名乗り、入院期間を過ごしていた。
無事退院となったのだろうクリスは、大変血色も良く、少し太って美しさも増した風で、笑顔も豊かに耀いていた。
歓声を上げて談笑する二人を、遠目に見守っていた武尊だが、別れの挨拶を交わした二人を呼び止め、
「少し時間があるなら、買い物に付き合ってはくれないだろうか?」
これから日本で暮らす白露に、服や靴を買う手伝いをして貰えないかと、クリスへ控えめに申し出た。予定も無く、気晴らしに街へ出て来たクリスは、『喜んで』と白露の手を握り、一緒に歩き出し、クリスの薦めで、品揃えが良いと言う洋品店へやって来た。
クリスに見立てて貰った、季節のワンピースを試着した白露が、フィッティングルームから姿を表すと、『良くお似合いで』と讃えた店員は、
「もうワンサイズ小さくても良いのですけれど、このくらいゆとりのある方が、美しいのです」
と、腰回りの生地が遊んで、緩く浮かび上がったドレープを撫でた。
店員は、白露が少女の身体とは微妙に異なることに、直ぐ気付いたようで、瞬時不思議そうに口唇を結んだが、素知らぬ振りで遣り過ごし、白露の身体を返して武尊へ向けると、もう一度『お似合いです』と微笑んだ。
落ち着いた中に、遊び心のある東雲色(柔らかい赤系の色)の、愛らしいデザインのワンピースは、肩口の上品なリボンと、アシンメトリーのスカート丈が、主張し過ぎず美しい。少女と言った年頃の白露が着ると、少し背伸をびしたようで、言い表せ無い愛しさに包まれる武尊だった。
「こっちの色違いも、捨て難いわ──」
同じデザインで、紅藤色(灰色掛かった赤紫色)の物を白露の身体へ当てたクリスは、まるで自分の服を選ぶかのよう、真剣な眼差しで鏡の中を眺めた。
「う……ん。落ち着き過ぎちゃうか」
手にしたワンピースを、店員に渡そうと向けたが、店員は受け取ることをせずに、
「お客様も、よろしければご試着下さいませ」
と笑顔を見せた。慌てて顔を振り、それを遠慮したクリスだが、
「着て見せて欲しいって」
白露が、武尊の言葉を伝え、その後ろで笑顔を見せて頷いた武尊に、頬を染めて素直に頷き返したクリスは、ワンピースを抱いて、フィッティングルームへ入った。
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