3/5
前へ
/84ページ
次へ
 二日後に日本へ発つこととなった白露が、朝霧と寝起きを共にし過ごした小部屋で、身の回りの片付けをしていると、背後から柔らかい声が掛かり、振り向くと福寿(ふくじゅ)の優しい笑顔があった。  ニーベルクから見て西側の隣国、ヴェロニック王の第三夫人として、身請けされることが決まった福寿は、近々この濤声楼(とうせいろう)を出てゆくこととなり、もう徒花の着物(べべ)姿では無く、上品な褐色(かちいろ)(濃い紺色)のシンプルなワンピースに、一つに束ねた、艶やかな黒髪を、ふんわり片方の胸へ流していた。 「福寿姉さん、この度はおめでとうさんです」  手を休めた白露が、お祝いの言葉を口にすると、『有難う』と喜んだ福寿は、荷造りを続けるように促し、 「白露ちゃんもね、おめでとうさん──」  心華やぐお祝いの言葉であるのに、涙で声を詰まらせた。白露の瞳にも薄っすら涙の幕が光り、お互いがお互いの幸福を嚙み締める時間が、僅かに流れ、頬へ零れた涙を拭い、二人は微笑んだ。 「頂いた着物(ベベ)なんですけれど、橘花(たちばな)さんに、譲ろうかと思うのです……」  橘花が白露の譲り受けた、福寿のお下がりに向ける憧れの眼差しは、実に雄弁で、淡雪(あわゆき)も、『あれ、相当欲しがってるわよ』と白露に囁くほどだった。 「白露ちゃんに上げた着物(もの)よ。好きになさいね」  にっこり微笑んだ福寿は、チラ──と後ろを振り向き、 「遥風(はるかぜ)ちゃんが、何か言いたいそうよ」  と、部屋へ入れず、モジモジやっている遥風を捕まえると、身体を押して、白露の前へ歩かせた。  顔を向けた白露が、『なんでしょう?』と尋ねると、握った手をズイ──と差し出した。遥風の拳を見て白露が首を傾げると、手の掌が開かれ、小さな天使が現れた。『あっ──』と声をたてた白露は、それがクリスマスツリーの飾り(チャーム)であると直ぐ様気付いた。  白露を愛した亡き『帝』が、イヴの夜、手土産として持って来たのが、オルゴールの鳴る、小さなクリスマスツリーだった。可愛らしいチャームが幾つか付いてはいたが、そのひとつが、こうして遥風の元に有ったとは、白露は思いもしなかった。受け取った白露が、鞄の中へしまうと、 「遥風ちゃん、未だあるでしょう? 返せなくなっちゃうわよ」  福寿が何時もらしからぬ険しい声を上げ、『わかったよ』と観念したように呟いた遥風は、着物の胸元へ手を差し入れ、抜き出した手には、美しい宝石が(ちりば)められた手鏡が有った。それも帝が、愛する白露へと手土産に持って来た品で、先ほど同様、白露が小さく叫びを上げると、 「ごめんなさい」  と謝りながら、遥風は胸元を掻きあわせ、 「あんたが憎らしかった。『白露、白露』って──みんなに可愛がられて」  不貞腐れ口調で捲したてた。『そんなこと無い』と白露が口を挟むとそれを制し、 「この店じゃ、アタシが一番なのに──面白くなかった」   手鏡を畳の上へそっと置き、『ごめんなさい』と謝りながら、頬を濡らした。 「酷いことを言った。悔しくて、悔しくて何度も打ってしまった──ごめんね……」  畳に膝を着いて白露の肩を抱き締め、『ごめんね』と繰り返した。 「いいえ、どうか謝らないでください。遥風姉さんはには、何時も笑ってて欲しい。私は、遥風姉さんの笑った顔が大好きです」  遥風の背中を抱いた白露は、優しく何度も擦った。 「私が、何時も憧れに描く女の姿は、遥風姉さん、貴女でした──だからどうか笑顔を見せてください」  泣くことを止められても尚、遥風の瞳からは涙が溢れた。 「幸せになっておくれよ。でなきゃ……承知しないんだからね」  号泣で叫んだそれは、遥風が送る、最大の(はなむけ)だった。
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

74人が本棚に入れています
本棚に追加