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 世話になった徒花たちに、挨拶を済ませた白露(しらつゆ)は、馬場曳きが迎えに来たことを知り、階下へ降りると、朝霧(あさぎり)は帳場で忙しく伝票を書いていた。 「──女将さん、長いこと有難うさんでした」  帳場の畳へ額を着けた三つ指で、最後の挨拶をした白露は、一言も返事の貰え無いことに、気落ちして顔を上げると、熱く見降ろす朝霧の視線が待っていた。 「覚えて無いだろうね──。お前が初めてここへ来た時も、そうして手を着いて挨拶したよ」  直ぐ様視線を帳簿へ流した朝霧は、詰まらなそうに言葉を続けた。 「厄介な子を連れて来られて……連れて来た元乳母だと言う女を、死んだ南天(なんてん)を恨んだよ──恨んだよ……」  言葉を繰り返す内、朝霧の声は細かく震えた。弱々しく『すみません』と謝罪した白露は、朝霧の頬へ静かに落ちる涙を見て言葉を失った。 「あの旦那さんが現れて、あたしはこんな日が来るだろうと思ったよ」  ため息に乗せて言葉を吐いた朝霧は、帳簿の上へ忙しく目を走らせたが、視線は字面を舐めているに過ぎなかった。 「恩塚(おんづか)様が、階段から降りて来るお前を見る時の、あの目──『帝』と全く同じ目だったよ」  帳簿の上へ涙の雫が落ちる度、微かな悲音が帳場に響いた。帝と聞いた白露は、朝霧の名を呼びながら傍へ座った。 「大事にして貰いなよ。そして──ここにはもう、帰って来ないでおくれよねッ」  言葉尻に、隠せない涙声を皮切りに、朝霧は声を上げて泣き出した。白露も涙で頬を濡らし、『有難うございました』と繰り返し、朝霧の肩を抱いた。暫く二人が抱き合い涙していると、調理場の暖簾が揺れ、 「白露や、元気でなぁ。ほい、飛行機で旦那さんと食わっせ──」  のほほんとした声が発ち、調理場の老婆が顔を出して、白露に包みを渡した。包みが開かれると、まん丸なおむすびが三つ入っていた。その手元を覗き込んだ朝霧は、途端に呆れ顔となり、 「今の白露は王族だよ、詰まんないもん、渡すんじゃないよッ、恥ずかしい」  礼を述べた白露の声を押し退け叫び、慌てて涙を拭うと、 「ほら、馬車が待ってる。早くいきな」  外門で、所在無げに待っている馬車曳きに気付き、白露の背中を叩いた。白露は頷き、 「女将さん、どうぞ健やかに──幸せを祈ります」  小さな鞄一つを手に、濤声楼(とうせいろう)を出て行った。  木漏れ日は優しく、濤声楼の格子窓に振り注ぎ、日毎増す寒さを、ひと時忘れさせるような、風の無い穏やかな昼下がりだった。遠去かる乾いた蹄の音に、朝霧はそっと別れを告げ、 「──帝……ミカエル様、どうか祈ってください、白露に極上の幸せを」  着物の胸元から、取り出した写真に語り掛けた。それは、ミカエルが僅か十九歳で、ニーベルク王に即位した記念にと、若く美しい新王を讃え、お祭り気分の街で売り出されたブロマイドだった。  写真のミカエルは、国王の華美な衣装にまだ馴染めない様子に、極めて硬い表情だったが、朝霧の記憶に何時も現れるミカエルは、黒いマントを脱いで、露わになった銀の髪が、煌めきながら軽やかに舞い、茜色の美しい瞳で朝霧を(みつ)め、羞恥(はにか)んだように笑う、青年らしい彼の姿だった。 「大丈夫、大天使と同じ名を持った、ミカエル様が見守って下さってるんだから」  写真を胸に抱き、朝霧はもう一度『大丈夫』と口にした。
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