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ニーベルクで過ごす最後の日、白露は、王位継承権の放棄を約束する誓約書にサインをする為、武尊と共にベルリーザ王国へ遣って来た。武尊としては、観光の延長的な、気軽な気分で足を伸ばしたに過ぎないが、いざベルリーザ国の入国審査を受けると、白露の身分を知った検査官が突如跪き、
「大変なご無礼を──今、城からの迎えが参ります故、どうぞこちらへ」
と、何処からともなく現れたSPらしき黒尽くめの男達に囲まれ、豪華な別室へ通された。
「このカードは、水戸黄門の印籠か?」
面食らった武尊は、慌ててスーツの内ポケットへ、白露のIDカードを仕舞った。
この日の白露は、濤声楼を出る為に買い揃えた、品の良いワンピースに、ハーフ丈のブーツは、上質な牛革を美しい紅樺色(赤系の茶色)に染めたハイヒール、手にしたバッグは、イタリア製の高級ブランド──何処からどう見ても、高貴なご令嬢そのものだった。それも、馬子にも衣装などでは無く、白露は、正真正銘の王族だ。
迎えに来た高級車に揺られ、小高い丘の上に建つ城に着くと、出迎えに数名の執事が待っていた。恭しく通された執務室で、誓約書にサインをし、僅か十分程度の滞在で、武尊と白露はベルリーザ王の城を後にした。
城の中庭を、如何にも仲睦まじく、腕を組み歩く二人を、広間の窓から眺めたベルリーザ王、クラレンスは、
「アリスの産んだ子──、余が『殺せ』と命じた半男女の赤ん坊か?」
ドアの脇に立つ侍女を振り向くと、侍女は恭しく頭を下げながら、『左様にございます』と応えた。
錫色(灰色掛かった青紫色)の瞳が印象的な侍女は、クラレンスが王位を継承した、二十歳の頃から仕える侍女で、神経質な顔立ちと、細身で長身のせいか、美しくはあるが、冷たい印象のする中年女性だ。
「そうか。よく似ているな、美しい母親に──あれは、何と言ったか……娼館の」
優雅な足捌きで、ドアへ歩み寄ったクラレンスは、記憶を呼び起こすように、顳顬を人差し指でトントン叩いた。
「確か、南天と名乗っていたかと」
白露を産んだアリスが、濤声楼で徒花として名乗っていた名を、侍女が告げると、クラレンスは即座に、『そうではない』と返し、
「あの女将──朝霧とか言ったか? あれは仲々、勝ち気な女であったな」
朝霧の姿を思い出すように、天井へ目を向けた。
クラレンスは、白露にIDを持たせてやりたいと、嘆願に来た娼館の女将の姿を思い出し、口許を僅かに浮薄けさせたご機嫌な顔を見せ、朝霧と交わした言葉を、脳裏に呼び戻していた。
口許をヴェールで覆った、ミステリアスな東洋人女は、認知を渋るクラレンスに、
「王位継承権を放棄させて、二度と姿を見せない約束を、させりゃぁ良いじゃないか」
と迫った。それでも血統を盾に、約束など反古にされはしないかと、端正な顔に、深い懸念を浮かべクラレンスが口にすると、
「白露は、そんなもん、欲しがりゃしないよ」
ふん──と鼻で嗤った朝霧は、クラレンスの美しく煌めく、常磐緑の瞳を、真っ向から見据えた。
「あたしの命を賭けても良いさ──どうか、認知してやっておくれよ──」
朝霧がテーブルに身を乗り出し、ヴェールに刺繍された優美な蝶が、繊細な振動で揺れ、羽根を震わせた。
国王を前に、臆することなど微塵も無い、挑むような朝霧の鋭い眼差しに、クラレンスが気圧されたのは、白露を産んだ南天の身請けを薦めに来た時と、これで二度目だった。
「アリスの時もだった。余に媚びるでも無くズケズケと──」
朝霧の態度を思い出し、思わず吹き出してしまったクラレンスは、『面白い女よのう』と何時までも喉奥を震わせていた。
広間の壁際は、歴代の王が忠実に描かれた、立派な肖像画で飾られており、やれやれと言った具合に、先代の王たちのお姿へ、視線を流した侍女は、クラレンスが、朝霧を妃に迎えたいなどと、飛んでもない気紛れでも起こすのではないかと、何時までも笑う国王の端正な横顔を盗み見て、激しく気を揉んでいた。
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