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安寧の天使
日本へ向かう直行便の出発時刻までは、約一時間半、軽く観光をして空港へ向かう予定を立て、二人を乗せた馬車は日本街の通りを二つ越えて、空港とは逆方向に建つ、ストラード美術館へ向かった。
一昨日からの二週間、期間限定の展示で、武尊が日本で見た、神榁 優花の油絵が見られるからだ。
ニーベルクで一番大きな、このストラード美術館は、個性的なゴシック建築の立派な建物で、ニーベルクを活動拠点とする画家は、誰しもこの美術館での展示に憧れを抱くとも言う。
美術館前で馬車を待たせ、館内に入った二人は、のんびりと、観賞して巡るほどの時間的余裕が無いので、目的の絵画だけを目指し歩いた。
回廊を進み、最奥のスペースに、あの日、武尊が見合い相手の多恵子と見た、一際大きな天使の油絵があった。思わず感嘆を漏らした武尊は、ライトで照らされているのかと、錯覚するくらい美しく輝いて見える、大きな油絵を見上げた。
背中を覆う大きな翼は、深淵の底で息づく、清らかな水に似た瑠璃い彩を忍ばせ、舞い上がる金色の髪は、たった今、巻き起こった風を感じて乱れたようだ。振り向いた天使の顔は、穏やかに優しく、何処か官能的に見えた。憂いを含んだ眼差しと、甘く綻んだ可憐な口唇が、そう思わせるのだろうか。顔の角度と、光の幻惑か、まるで白露のオッドアイのように、不均等に描かれた魅惑の双眸──。
ニーベルクで白露と別れ、この絵を見た武尊に、恋心を自覚させた美しい天使の絵。タイトルは『安寧の天使』──そう記されたプレートの右側に、この絵が、栄えあるストラード美術館賞を授かったことを知った。
大迫力の絵画を眺める白露は、惚っとり見上げて、一言『美しいです』と、ため息を溢して称賛した。
「まるで、お前を描き写したようだな」
武尊も目を細めて、天使画を眺めると、傍らにいた二人の女性が、声に目を向け白露を見た。驚きに小さな叫び声を漏らすと、二人は腕を突っつき合った。
「本当だ! 絵から抜け出して来たみたい!」
声のトーンを抑えるも、興奮冷めやらぬと言った様子に、『天使だ、天使だ』と囁き合った二人は、視線を交わすと手を取り合って、女学生のように燥いだ。
羞恥に顔を赤らめ、白露が武尊の背中に隠れてしまうと、
「ニーベルクの方? それとも観光ですか? 日本から?」
ニーベルクの言葉で、立て続けに問われた武尊は、これから二人で、日本へ帰るのだと説明をした。美術館を出た所でまた出会い、呼び止められると、白露の写真を、一枚撮らせて欲しいと頼まれた。
「最後のニーベルクだ、記念になる。撮って貰え」
すっかり怯えてしまった白露は、武尊に背中を押して促されると、怯えながらも、美術館をバックに被写体となった。
「記念に、皆で撮りましょうよ」
礼を述べながらカメラを掲げた女性が、通り掛かった警備員を捕まえ、シャッターを切らせた。
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