アルタイルより愛(とそれ以外のやたら重苦しい何か)を込めて

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 彼女の世界には好きなものがいっぱいあって、例えば自由帳もそのうちのひとつ。  名前がいい。なんせ「ブック・オブ・フリーダム」だ。ただ白紙を束ねただけの冊子をして、でもこれこそが無限の可能性の塊なのだと、その「とりあえず言っとけ」感がとても可愛いのだとか。  ——わからん。  およそ十五年ほど前のこと、彼女がまだ中学生だった頃の話だ。  自由帳ひとつでこの調子、他のあれやこれやに関しても推して知るべしというもの。  わたしなんでもすぐ好きになっちゃうみたい、と、その懸念を説明するのに「尻軽」なんて言葉を使っちゃうような女だ。年齢にして五つ下、まだ小学生だった私が相手でも一切お構いなしの、自由な可能性の塊があの()(づき)はるかという人間だった。 「ねえみのり。きっとわたし、そのうち人の道を踏み外すと思うから、そしたらみのりが成敗してね」  手加減はいらないから、と柔らかく微笑む彼女に、私はなんと答えたろう。  実家のベランダ、その年の(たな)(ばた)の夜空は(あい)(にく)の曇り模様で、だめだこれじゃ願いなんか叶うわけないもうおしまいだと、そう(へそ)を曲げた私を宥める——というか、話の腰を折って気を逸らすための話題だったと、大人になった今なら理解できる。  大した人だ。だって中学生にしてこの子供のあしらい方のうまさ。もし私が、それも今現在の私が当時の彼女の立場だったとして、でも同じようにやれる気はしない。姉というのは不思議な生き物だと思う。同じ家に生まれ、同じ両親のもとで同じように育てられても、いつも彼女だけが特別だった。どこの家もそうなのだろうか? 姉は優秀で、おしゃれで気が利いて頭の回転がすこぶる早くて、なのに言うことが軒並みふわふわしていた。捉えどころがない。見るもの聞くもの全部好きになっちゃうおかげか、美人に特有のあのとっつきにくさみたいなものがなくて、ただひたすら緩み切った笑顔の似合う、夏の日の不思議な幻みたいな女だった。  幻だったのだろうか?  久方ぶりの実家のベランダ。かつて姉と一緒に見上げた曇り空の下に、でも今は私ひとりだけだ。 「お姉ちゃん、あれで結構、薄情だからねえ」  五分ほど前、こうしてベランダに出る直前に聞いた母の言葉。知ってる、というか、まあ否定はできない、というのが正直なところだ。  八月のお盆休み、こうして律儀に帰省するのは今年も私ひとりで、まあ彼女の場合は住まいが遠すぎるというのもあるのだけれど、にしてももうちょっとくらい両親に顔を見せてやってもって思う。わかるけど。気持ちは。実家が嫌とか親との折り合いがっていうより、〝いま目の前にないもの〟に関しては、なんか一気にめんどくさくなっちゃう性分。  ——そんなんでやっていけるのだろうか。  なんて、私なんかの言えたことでもないけど。どんなに薄情でズボラで不義理であっても、しかし私よりはしっかりしているのは言うまでもなくて、でも違う。比較の問題じゃない。二十四歳の私はまだしっかりしていない人生でいいけど、でも彼女のこれからはそうはいかないはずだ。  それはついさっき、実家に着いて初めて聞いたこと。  ——なんか、はるかが、結婚? するらしい、って。  一応、日程としてはまだ先の話みたいなのだけれど。いろいろ忙しくて挙式の予定もまだ先で、入籍だけならできるけどあんまり間が開くのもやだからもうちょいかかると、そんなことよりまず相手は誰って話だ。いや誰っていうか何っていうか、はるかはなんでもすぐ好きになっちゃう女で、とはいえまさか自由帳が相手ってことはないだろうけれど。  実家にほとんど寄り付かない娘が、でも急に男連れて帰ってきて、いやもちろん事前に連絡なりはあったわけだけれど、でもそういう話が姉と両親の間でいつの間にか進行していたことを、私は何ひとつ聞いていないっていうか母さんそれでよく人のこと薄情って言えたねって話だ。  まだしばらく先、と言っても、まあだいたい一年かそのもうちょっとくらい先か。遅くとも来年の末ごろまでには、あのはるかが人妻になっているのだ——と、そのまごうかたなき現実の現実味のなさに、なんかよくわからない謎の笑いが漏れる。  旦那さんの写真は見せてもらった。ぱっと見、しっかりしたいい人っぽいし、なんなら美形と言ってもいいけど、でも見れば見るほど絵空事っぽく感じる。誰。っていうか、何。急に湧いてきた姉の婚約者、ってことはいずれ私の義理の兄ということになるらしいこの写真の中の彼は、なんというか本当に曖昧だった。ピンとこない。大体にして、まず人間であること自体が間違っている。あの姉が、我が家のスーパーウーマン安月はるかが、なんでも好きになっちゃう無限の可能性の塊が、普通の人間と普通に結婚するっていうイメージ自体が嘘だ。 「自由帳の方がよかったよ絶対」  そう思い、ただ星に祈るにとどめるつもりが、でも矢も盾もたまらず室内へと戻る。  自由帳。あの頃、まだ「尻軽」という語を知らない小学生とその姉との間にあった、無限に広がる白紙の未来。その束に、何冊にもわたって繰り返し、好き放題詰め込んだ身勝手な夢。どこかにしまってあるはずで、だから机や本棚、さらに古い箪笥の奥までひっくり返したのに、でもどうしても見つからない。  出てきたのは、私の自由帳だけ。ひと目でわかる。ぐちゃぐちゃの拙い落書きは、明らかに姉のものではない。  ——なかった。  あんなに好きだと言っていたはずの、姉のそれはでも、一冊も。  いや、彼女の言い分では単に自由帳の名前が好きなだけで、現物についてはさも興味がないような言い(ぐさ)ではあったけれど。でも違う。知ってる。それは欺瞞、いや後付けの言い訳だったと、大人になった今なら確信できる。  思い起こされるのは姉の姿。まだふたり共用の子供部屋、机に向かって一心不乱に、無限の可能性を綴るその姿。  私の自由帳、何冊も発掘された懐かしのそれは、でも結局はるかの影響でしかない。お姉ちゃんの好きなものだから真似したのだ。全部そう。趣味も、ファッションも、勉強——はちょっと無理だったけれど、でもすべて。なんならいっくんに手を出しかけたことすらあった。いっくんというのは姉の初めての彼氏で、それを媚びたような声音で「おにいちゃん♡」とか呼んでた中学時代の私は、本気でどうかしていたと思う。頭が。倫理観も。というか、当時の私みたいな洒落っ気のないもっさい田舎娘が、多少猫撫で声を出した程度でよく男を誘惑したつもりになれたなと思う。私の方だった。人の道を踏み外し、成敗されるべきだった野の獣は。  ——もしかして。  ふと気づく。まさか、それか? 長女の結婚という我が家の重大ニュースが、なぜか私にだけ共有されされてないの。  ありうる。でもこの薄情ズボラ一家のこと、「ただの不義理」の可能性も半々くらいで、でもここまで来たらそんなのどうだっていい。今は自由帳だ。あんないっくん(ツー)——さっき名前聞いたけどもう忘れたので便宜上そう呼ぶ——よりも、絶対に。  はるかはなんでもすぐ好きになる女で、つまりとんでもない尻軽で、だからそんなの勿体無い。  認めない。  そんなごく普通の、当たり前で平凡な、誰もがするような、結婚なんか。 「みのり。あんたなーにしよん」  母に見つかったのはそれからすぐ、押入れから尻だけ出してウーウー唸っていたときのことだ。果たして、このまま天井裏まで捜索の手を伸ばすか否か。姉の自由帳が見つからなくてと話すと、母はなんでそんなものと首をかしげる。それから、延々続く説明を数分。だめだ埒があかんと父へと詰め寄って、そして発覚した、驚愕の事実。 「ああ。それなら、おれが燃した」  おい嘘でしょ何してくれてんのお前と、そう掴み掛かるのをすんでのところで堪える。悪くない。父は、何も。なんでも、姉がいっくん(ツー)を連れて挨拶に来る直前、姉からの電話による指示でそうしたとかで、しかしそんな指令をよくこの父が——どんな些末な思い出でも取っておきたがるこの人が素直に聞いたね、と、そこまで考えた時点で私は思い出す。  ——そっか。  あれは、私の思い出の根っこに残るあの絵は、はるかの自由帳のそれだったか。  断片的な記憶。ちょっと大きな声では言いにくい、でも私の男性観や性的な関心に、間違いなく一定の方向づけをしたであろう、めくるめく何か。砂糖のように甘く、香辛料のように刺激的なそれは、つまり男性のあられもない姿を描いたイラストレーション。  ——初代いっくん。  いや、いっくんではないけど、でも事実上のいっくんライジング的な何か。  思い出した。あのとき、私が姉の彼氏を猫撫で声で「おにいちゃん♡」呼びできた理由。何かを勘違いした妹の暴走を、しかし彼女が強く諌めることのできなかったその原因。  私だけは見ていた。世界にひとり、妹の私だけが知っていた。優秀で何ひとつ欠点のない、あの完璧な姉の秘密を。若気の至りを。人の道を踏み外した獣を狩るための、一撃必殺のその槍を。  忘れていた。今の今まで、すっかり、そんななにより大切なことを。  自由帳。中学生時代の姉の空想上の(イマジナリー)恋人、といっては言い過ぎにせよでも少なからず好きだったはずのそれが、でも今はない。燃えた。父の手によってメラメラと、たなびく煙となって七夕の空——そう、姉が父に指示したのは奇しくも七夕のことだった——へと昇って、果たして天の川へと辿り着けたのだろうか? あの半裸の男性たち、今は(おぼろ)げな記憶なれど、でもやたら肩幅が広くて筋肉質だったはずの初代いっくんたちは、今や遥か遠い銀河の彼方だ。  でも今、こうしていよいよ結婚する姉の、その隣にいるのは——いっくん(ツー)。 「あんた何言うとん。いっくん違う、松山さん」  そう、それ。松山さん。行きがかり上(ツー)にしたけど、でもさすがに名前くらいはちゃんと覚えようと思う、でないと姉のことを薄情だの不義理だのと言えない。  ——結局、ここだ。私の居場所ははるかの隣でなく、実家のベランダくらいがちょうどいい。  自由帳に、いっくん、それに私。少なくとも人生の一定期間、彼女の一番近くを独占したはずの私たちは、でも結局、そこに居続けることは叶わなかった。そういうものだ。松山さんを主役とするなら私たちは脇役でしかなくて、そのこと自体に文句を言う気はないけど、でもだから言ったじゃんって今更ながらに思う。  あの日、いくら天を仰げどもまるで見えなかった、曇天の向こうの天の川。  姉の自由帳の中身は忘れても、でもそれだけは忘れない。あの日、短冊に書き込んだたったひとつの願い。子供らしいわがままといえばそれまでだけれど、でも泣いて姉を困らせるくらいには本気だった野望。  ——おねえちゃんとずっと一緒にいられますように。  私ももう二十四歳のいい大人、それが叶わないことくらいは、理解するけど。 「にしても、せめてお盆か正月のどっちかくらい、年に一度くらいは帰ってきたっていいじゃんね」  まあ、もとより分のない勝負ではあった。  だって彼女の自由帳、白紙の束は無限の可能性の塊。  引き換え、私は短冊一枚。あまりにも小さく頼りないその紙切れは、わがままな妹の願いを綴り切るには——。  自明のこと。  あまりにも、余白が足りないのだから。 〈アルタイルより愛(とそれ以外のやたら重苦しい何か)を込めて 了〉
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!