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「ーーあ、雨」
カーテンを閉めた窓の向こう側から聴こえてきた雨音に彼がぽつりと呟いた。 ざあざあと降り注ぐ雨がこつん、こつんと窓をノックする。
「……どうする?」
ソファに隣り合って座り、一緒にコーヒーを飲んでいた私へ彼は短く訊ねた。
私の答えは既に決まっている。
「濡れたくないし……迷惑じゃなかったら、泊まっていっていい?」
「ん、いいよ」
友人としての付き合いは長く、恋人としての付き合いはまだまだ短い彼はとても優しい。ここは彼の家なのだから雨傘ぐらい置いてある。なのに、私が濡れるのは嫌だから雨の中を帰りたくないと言えば、嫌な顔ひとつしないでお泊まりを了承してくれるのだ。
「……あ。シャンプー、まだ残ってたっけ……」
「この前、詰め替え用買っておいたよ。あの……名前なんだっけ……好きな女優さんのCMのヤツで良かったんだよね?」
「うん、そう! ありがと!」
シャンプーにコンディショナー、パジャマ、歯ブラシ、歯磨き粉、その他諸々。彼の家を訪れる度、決まっていつも雨が降ってはお泊まりするから、私の物がどんどん増えていった。突然のお泊まりも問題ないし、なんなら今日から同棲を始めても問題ないんじゃないだろうか。
「……もう、このままここに住んじゃおっかな」
「へ!?」
驚いた彼は持っていたマグカップからコーヒーを少し溢してしまったらしく「熱っ」と小さく悲鳴を上げる。
「嫌?」
「い、や、じゃ、ないんだけど……」
「けど?」
「……やっぱダメ。一緒に住むのはまだダメ」
「えー」
まだダメ、と言っているから、これから先のいつかには同棲する未来があると思いたい。
しかし、ダメと言われてしまうとは。毎回毎回泊まっていって、私物をどんどん増やしていく面倒臭い彼女とでも思われていたりするのだろうか。
カーテンの向こうから届く雨音はしとしとと先程までの元気を失っている。
「なんでダメなの?」
「それは……その……」
ほんの少し不安になって訊ねれば、彼は言い辛そうに視線を逸らした。こうやって訊ねるところこそ面倒臭い彼女と思われてしまうのでは、と内心反省しつつ彼の答えを待つ。
「……き、君、が、」
ようやく口を開いた彼の顔は赤く染まっていた。
「君が、お泊まりするってだけで、心臓がヤバい事になってるから……ずっと一緒に暮らすってなったら、絶対に、心臓もたないから……だから、その、もう少しだけ待ってくれると助かります……」
何故か最後は敬語で彼は言う。彼に釣られて私の顔も段々と熱くなってきた。
いつも平然とした顔と声でお泊まりを二つ返事で快く了承してくれていたから、まさかその裏でそんなにも自分を意識してくれていたなんて。全く意識していなかった訳ではないが、何だか改めて自分も恥ずかしくなってきた。
カーテンの向こうの雨音が自分の心音と同じようにバタバタと窓ガラスを慌ただしく駆け回るような音へと変わる。
「え、あ、そ、そっか……ぜ、全然そんな風には見えなかったなー」
「……俺だって、彼女の前でぐらい、余裕のあるカッコイイ男でいたいよ」
むすりと不貞腐れて彼はコーヒーを一口飲む。
無理に余裕のあるカッコイイ男でいなくとも、今みたいにちょっと子供っぽいところも可愛いし、彼の魅力は、自分が彼に惹かれた理由はそれだけじゃないのになと思う。
突然だが、私の遥か遠い祖先には妖怪の雨女がいる。
干ばつ続きの土地に雨を降らして人を助ける妖怪だったらしい。
子孫の私も雨を降らす事が出来る、のだけれどもいかんせん制御が出来ない。私の感情に左右されて、降ったり止んだり雷が轟いたり、色々だ。喜んでも、怒っても、悲しんでも、楽しんでも、雨は激しさを変えるだけで止んではくれない。
いつでもどこでも空気を読まずに雨を降らす、正真正銘の雨女。
誰もが私の雨を疎んだ。私も私の雨を疎んだ。誰かと一緒にいる為には自分の感情を押し殺さなければならないのだと、幼いながらに私は悟った。
けれど、彼だけは違ったのだ。
『俺、あんまり太陽とか、肌がじりじり焼ける感じがして、得意じゃなくってさ。でも、君の近くにいたら曇りとか雨とかの日が多くって、気が楽なんだ』
私さえ嫌っていた雨を、彼だけは喜んで受け入れてくれていた。
瞬間、突然の豪雨に二人揃って全身びしょ濡れになってしまった事を、それでも笑っていた彼の姿を今でも鮮明に覚えている。
恋に落ちる音は、雷となってずどんと鳴り響いた。
「デートの時、いつも曇りだったり雨だったりしても、嫌な顔一つしないじゃん。私は、それだけで充分カッコイイって思うけどなぁ」
「好きな子と一緒にいられるのに、なんで嫌な顔しなきゃいけないの?」
心底訳が分からないと言いたげな顔で彼は首を傾げる。さらっとそんな事を言ってしまえる彼はやっぱり充分カッコイイ。私はコーヒーを飲むフリをして俯いて、真っ赤に染まった顔を隠した。
窓ガラスを叩く雨音はより一層激しさを増している。
「雨、酷くなってきたね」
「……うん」
「降り始めた時に、無理に帰らなくって良かったね」
「……うん」
同棲なんて、やっぱり自分もまだ無理だ。
ここら一帯を雨で沈めてしまう。
◆
突然だが、俺の遥か遠い祖先には吸血鬼がいる。
血を吸ったり、日光とか十字架とかが苦手なあの吸血鬼だ。
子孫の俺も人の生き血を啜る、なんて事はなく、牙なんて退化してもう名残さえ残っていない。十字架だってにんにくだって平気だ。
けれど、一つだけ苦手なものがある。
それは、日光だ。
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