この雨が聞こえているうちは

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この雨が聞こえているうちは

 読んでいた小説の世界に、雨が降った。  人生に面白みを見出せない男主人公が、会社のビルの屋上で、空を見上げたところだ。  慈悲もなく身体を濡らす雨粒と、徐々に勢いを増す雨音を聞きながら、その主人公は、あんまりいいことないな、と呟いた。働いている仕事がうまくいかずに上司に怒られ、転職したいと思っているのにいざとなると腰が動かず、そのだらしなさのせいで彼女にも愛想をつかされる、というなかなかにブルーなシーンだった。  高いところに行くと気がまぎれる、という理由だけで、屋上へ上がったことにそれ以上の意味はないが、主人公は雨雲が広がる曇天の空を視界におさめながら、垂れ落ちる雫と同じように、情けなく涙を流す、といったシーンだった。  この小説のように、物語のなかでしばしば登場する「雨」という天候は、なにかその世界の雰囲気を特別なものにするのかもしれない。と、僕は長年本を読んできた経験からそう考えていた。  雨は、その物語のなかでかなり重要な場面、それもどちらかと言えば少し不穏な雰囲気が漂う場面で降り注ぐことが多い。  そして、そこで起こる出来事や、登場人物による会話、それらが脳内に想像される雨粒とかすかに聞こえてくる雨音と混ざり合い、それがわれわれの想像の視覚と聴覚を通して、伝わってくるのかもしれない。  物語の世界で、不穏な雰囲気の漂う場面や、暗くて憂鬱な気分にさせるような場面で、雨が降ることが多いのには、「雨」そのものに、暗い、陰鬱な、といったイメージを世間一般的に多くの人が持っているから、というものが理由に挙がるだろう。  なにせ、外に出るのには傘が必須になるし、洗濯物も干すことができない。だからこそ、そんな雨が続く梅雨という時期は、しばしば人の心を憂鬱にさせる。  僕ももともとは雨が好きではなかった。そう。もともとは、の話だ。  本から目を上げ、窓の外を見る。こちらの世界でも、今日は朝から雨が降っている。  僕は、雨降りの休日は必ず読書をすることに決めている。ただでさえ陰鬱な気分にさせる雨という天気を、読書という好きな行為に結び付けることで、その日の気分の優劣を中和することができるのではないか、という単純な考えからだ。  こうして窓際で雨の降る音をバックミュージックにして、コーヒーを飲みながら読書の世界に浸る。  そして――かすかに脳裏に聞こえるのは、あの優しい鼻歌だった。
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