この雨が聞こえているうちは

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「傘って、素敵だと思わない?」  とある日の、雨降りの夜道。なるべく二人ともが濡れないように傘を持っていた僕の横で、ふと彼女がそう言った。  結婚して間もなくのころだった。僕の仕事帰りに雨が降ると、きまって彼女が駅まで傘を持って迎えに来てくれた。  二人分の傘をちゃんと持ってきてくれる彼女だったが、途中で狭い道などを歩くときに車が通ると危ないので、結局いつも二人で一つの傘に入ることになった。  とは言ってもその道は車の通りがほとんどなく、むしろ道には他に誰もいないような日が多かったのだが、僕たちはそれでも相合傘をして家までの十数分を歩いていた。 「こうして一つの傘に二人で入ると、なんかこの雨の音も、二人だけで共有しているっていうか」  自分の思考にぴったりとはまった言葉を探すように、彼女はうーん、と唸っていた。 「なんか、世界が二人だけになるみたいな感じ。言いたいこと、分かる?」  その時は、よく分からない、と僕は答えてしまった。なんでよー、という彼女の横顔を見ながら、僕は少し申し訳なく思った。  本当は、少し分かる気がした。それでもその表現が照れくさく感じて、つい僕はとぼけてしまったのだ。僕にはときにそういうところがあった。いい表現だと思ったんだけどなー、と名残惜しそうにつぶやいた彼女に、ごめんね、と僕は謝った。  濡れたアスファルトの道を走る一台の車が、涼しげな音を立てて僕たちの横を過ぎ去っていった。  降りしきる雨は、空からの果てしない距離を一心に駆け抜け、ぼんやりと立つ電灯に照らされるその一瞬だけ、夜の薄暗い空間に光の線を描く。  このままだと、明日も止みそうにないな、と僕は思った。  すると、しばらく訪れていた静寂に落とされた、彼女の言葉。それが、いくつもの年月が流れた今でも、僕の記憶に鮮明に残っている。 「私、昔からずっと思ってたんだけどね」  傘が雨粒を弾く音に包まれたなかで、彼女が言った。 「雨だけ、音があるんだよ」  初めは彼女の言っている意味が今度は本当に分からなくて、「どういうこと?」と僕は訊き返した。 「晴れと曇りと、雨と雪。この四つの天気のなかで、雨だけ音が鳴るの」  雨だけ音を聞いて、今日は雨だな、って分かるでしょ。と話す彼女に僕は、ほんとだ、と答えた。今までまったく考えたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。 「だから、雨の音って、なんか特別なものに感じるの。この雨が降っている間も、こうして同じ傘の中にいられるんだって思ったら、この音がどんどん好きになるの」  僕は、そう語る彼女の横顔を見つめていた。なんて詩的な表現で、素敵な言葉なんだろうと、率直に思った。  そんな彼女の体温を寄せ合った肩に感じながら、僕はその温度から彼女という存在の幸せを全身に巡らせていた。  そして、その温かい二人の世界を、降りつづける雨の音が静かに、穏やかに包んでくれているような気がした。  そしてそれ以降、僕は雨が――この雨の降る音が、少しだけ好きになった。
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