12人が本棚に入れています
本棚に追加
海の底に連れてって
彼が奏でるその楽器の音は、波のザー、ザー、という音と絡まり合いながら、私の意識を海の底へと連れていく。
海の底で温かい水に包まれて、私は地上で受けた傷を癒す。
ずっと彼のそばにいて、この音を聴いていないと、私の心は死んでしまう。
そんな気がした。
『三十四歳の女が仕事を辞めるって、結婚以外にある?いいかげんにしなさい』
電車の中で母親からのメールを読み、げんなりした私はスマホの電源を落とした。
目的の駅でホームに降り立つと、潮の香りがした。ざらついて、べたついて、ここは生身の人間になれる場所なのだと、空気が教えてくれた。
私一人しか降りないんだなあ。シーズンオフだしね。
秋の風は冷たくて、私はジップアップパーカーのファスナーを首元まで上げた。
海水浴場だけの観光の町は、秋になると、すっかり寂れてしまう。サーフィンやスキューバダイビングをしに来る人も少ないらしく、若者ウェルカム、といった雰囲気がまるでない。
駅前のロータリーや駅前商店街は色褪せ、活気がない。
「木戸……あずさ、さん?」
「はい?」
ロータリーの前で呆然としていた私に声をかけてきた男性は、私と同年代くらいに見えたが、驚くほど整った顔立ちだったので、思わず見惚れてしまった。
ギラギラしていない、穏やかな顔つきの、ひょろりと細い男性が、ニコッと笑った。
「迎えにきました。民宿『うしお』です」
「あ、ああ……ありがとうございます。木戸です。よろしくお願いします」
彼はサッと私のスーツケースの取っ手をつかみ、ゴロゴロと引きながら、白いワゴン車に向かって歩いて行った。私はただ、せかせかとあとをついて行った。
民宿『うしお』は駅から車で二十分。丘の中腹にあり、部屋の窓から海が一望できた。
予約の際に、畳の生活に慣れていないと伝えてあったので、畳の上にすのこ式のベッドが置いてあった。夜にはこの上に布団を敷くのだろう。
そして一人用の小さい円形のテーブルと椅子も運び込まれていた。
床に座る、という生活環境で育っていない私が、ペンションではなく民宿を希望したのは私のわがままなのに、対応してくれた気持ちが嬉しかった。
これからひと月。私はなんの目的もなく、だらだらここに滞在する予定だ。
私は椅子を窓辺に持っていき、開け放した窓のそばに座った。
砂浜で犬の散歩をしている老夫婦が見えた。
穏やかだ。
こんなに穏やかな場所が、同じ日本にあるのに。
いったい、今までの私の生活はなんだったんだろう。
上司のセクハラ。同僚のいやがらせ。男性社員の嫌み。十二年の会社員生活は地獄だった。
あの日。
車の中でむりやり常務にキスされて、胸をつかまれた。あとで運転手さんにニヤニヤされた、あの日。
もう無理だと思った。もうがんばれない。
常務に気に入られているから秘書室の主任に昇進したと男性社員に悪口を言われ、庇ってくれたある男性社員が女性社員に人気のある人だったから、同僚の女性達に無視されるようになった。
くだらない。
くだらない。
くだらない。
くだらないとわかっているのに、負けた。
常務の度重なるセクハラより、同僚の無視のほうがこたえた。
入社式に同じ空間で緊張し、研修に苦しみ、手探りで共に仕事を覚えていった仲間だった。
休日に集まって勉強したり、居酒屋で一緒に泣いたりした。
脆い仲間。くだらない嫉妬。負けた私。
「……最っ低ー」
思い出したら、つい口に出してしまった。
「あ、やっぱり?」
声がして、驚いて振り返ると、部屋の入り口に、先程紹介された民宿の女将さんがお盆を持って立っていた。
「ごめんなさいね、和室にベッド、とか……」
「ちが……違います、違います。私のわがままを聞いてくださって、大変ありがたいと思っております、本当に」
私が慌てると、女将さんはふふふ、と柔らかい笑顔を見せた。迎えに来てくれた男性と、よく似たその笑顔を見て、ホッとした。
「お茶、淹れますね」
小さく丸いテーブルで、女将さんが淹れてくれたお茶は、きれいな深緑色をしていた。
「おいしい……」
ひとくち飲んだお茶はとろんとしたあと、すっきりして、後味が良かった。
「お名前、あずさ、さん、でしたね。かわいいお名前だなって思いました。あ、入金確認した時ですけど」
一泊二食つきで一万円の民宿にひと月泊まるとなれば、三十万だ。さすがに先の入金を、という話になった。
貯金は充分すぎるほどあった。休日出勤が多くて、お金を使うことがあまりなかったからだ。いつかはやってみたいと思っていたオーダーメイドでスーツを作るという夢も、暇がなくて叶わなかった。
「なにもないところですけど、ゆっくり過ごしてくださいね。とても疲れていらっしゃるみたいだから」
私の顔つきを見て、なにか思うところがあったのだろう。女将さんの労いの言葉が身に沁みた。
私に優しい言葉をかけてくれる人が、まだ日本にいたんだ。
そう思ってしまう自分は『病んでいる』のだと、俯瞰している自分がいる。
「夕食は六時半頃でいいですか?」
「はい、お願いします。ただ、私、かなり少食なので、量を少なくしていただけますか」
そのとき、ポー、と聞き慣れない音が聞こえた。
窓の外を見たが、音の出所が見あたらない。
また、ポー、と、今度は先程より少し高い音が聞こえた。
「なに?」
「あ、うるさいですか?すみません」
「いえ、うるさくはありません……いい音ですね……なんですか?」
「うちの息子、あなたを迎えに行った……あの子が海のほうで吹いてるんです。ホルン」
「ホルン?なんか、あの……くるくるしてる楽器ですか?」
「そうです。あれはロングトーンっていって、基礎練習なんです。雨の日以外は毎日、仕事の合間に海の近くに行って基礎練習だけやってるんです」
一瞬、寂しそうに目を伏せた女将さんの表情が少し気になった。
翌日。
やることもなく、時間を持て余し、私は民宿を出て、坂を降りた。
風が冷たい。
海からの風はいつも人間に優しいわけではないのだろう。これからどんどん寒くなって、刺すような痛い風に変わっていく。
それでも人間の世界よりはずっといい。
私は砂浜に立ち尽くし、しばらく波を見ていた。
波は迫ってきては引いていくのを繰り返しているだけなのに、見ていて全然飽きなかった。
「今日は波が穏やかだなあ」
後ろのほうから声をかけられて振り向くと、民宿の息子さんが砂浜に降りて、私のほうに歩いてくるところだった。
「誠二郎君……」
前日、迎えに来てくれた車の中で、名前と、年が同じだということだけは話をして確認したが、名前を呼ぶのは初めてで、少しだけドキドキした。
「あずささん、昨日、俺のホルン、いい音って言ってくれたんだってね。母さん、嬉しそうだった。ありがとな」
「あ……うん」
妙に気恥ずかしい。
「今日は吹かないの?」
「午後、少し時間が空くから、吹くよ」
「私、あの……近くで……聴き、たいんだけど……いい?」
なにを恥ずかしがっているんだ。思春期の子供じゃあるまいし。
「あ……うん……いい、よ」
彼も照れている。顔が真っ赤だ。
「人前で吹くの、久しぶり……」
「そうなの?」
音楽の世界に疎い私にはピンとこなくて、素朴な疑問を彼に投げかけたが、彼は苦笑した。
午後、民宿から少し離れた堤防の上で、彼は大きなケースからホルンを取り出した。
ホルンは日の光を受けて、眩しいくらいに輝いた。
「海の潮で錆びたりしないの?」
あまりにも美しいので、私は不思議に思って、尋ねた。
「ラッカー塗装してあるから、大丈夫。定期的にメンテにも出してるし」
「……ふうん」
言ってること、全然わからないけど。まあいいか。
「普通に、ちょっと基礎練するだけなんだけど、いい?」
私は頷くと、少し距離を置いて座り込んだ。
彼がホルンを吹くことに集中できるように。邪魔にならないように。
ひょろりと細く、背の高い彼が、楽器を構えて背筋を伸ばした姿は、美しかった。
キラキラ光る海をバックに、細く張りつめた線と、迷路のような形をしたホルンは、なにものにも汚されない美しさを放っていた。
ポー。
トゲのない、丸く優しい音。
彼が長く吹く、一音、また一音。
私の心はその音に包まれて、海の中へ運ばれる。ゆっくり、ゆらゆら。
海の底はなぜか温かく、かすかに光が届くだけの薄暗い、しんとした場所。
私は座り込む。さらさらとした砂。そこでホルンのポーという音を聴いている。
心にいくつもできた、ナイフで切り裂かれたような傷が、少しずつ閉じていくのを感じる。
「あずささん?」
私の名を呼ぶ声に、ハッとして、目を開けた。
「寝てた?」
「ううん。海の底で聴いてた」
彼は私から一歩離れ、
「大丈夫か」
と怖々と呟いた。
「褒めてるの!私、素人だけど!でもその音に感動したの!」
私がそう訴えると、彼は今朝、砂浜で見せた時と同じように、苦笑した。
「ホルンを褒められたの、久しぶりだ……ありがとう」
私は彼がマウスピースを手際よく磨いたり、楽器をケースに納めたりするのを見ていた。彼の細くて長い指が荒れていた。
不似合いだ。
不思議とそう思った。
荒れている手が、むしろ誇りである、という手もあるだろう。それだけ胸を張れる仕事をしている、という人によくあるような。荒れた手が勲章のような、そんな手。
彼の手は違った。
「誠二郎君は、ホルンが本業なの?」
「違うよ。民宿経営を継ぐつもりだよ。一昨年親父が亡くなってさ、母親だけじゃ民宿やっていけないから」
「じゃあなんで毎日ロングトーンやってるの?」
私が尋ねたことは禁句だったのか、彼は前日女将さんが寂しそうに目を伏せたのと、とてもよく似た表情をした。
「ごめん。なんか地雷だった?」
「いや。つまんない話だよ」
彼はケースをパチンと閉めると、私の隣に座り込んだ。
「子供の頃からホルンが好きだった。中学、高校の頃は、よくこの堤防の上で吹いてた。家にお金がないのはわかっていたけど、無理を言って音大に行かせてもらった。留学の話もあった。ドイツやオーストリアはオーケストラの最高峰だからね。留学したかった。でもどうしてもそのお金が工面できなかった。奨学金、バイト、教育ローンでも学費が賄えなかったりね。音大生って練習に明け暮れて、あんまりバイトする時間も取れないし。楽器にはお金がかかるし」
彼はうーんと言いながら伸びをし、それから海を見つめて深いため息をついた。
「大学を卒業して、東京の、ある交響楽団に入ったけど、音楽で食べていけるようにはならない。結局契約社員で働きながら、ホルンは趣味、みたいになっていった。留学した同級生が日本に帰ってきたら、俺とはすごく差がついていて、そいつは日本では一番と言われてる、有名な交響楽団にいる。昔は毎週テレビで放送されていた、有名なところだよ」
「誠二郎君はその交響楽団には入れないの?」
彼は、はは、と笑って
「残念だけど」
と言った。
「音楽をやっているとね、俺みたいなのがほとんどなんだよ。音楽で食べていける人間なんて、一握りいるかどうか、くらい。だから珍しい話じゃないんだよ」
彼は立ち上がると、楽器ケースを手に取った。
「帰ろう。あずささんの夕食を作る時間だ」
すたすた歩いていく歩幅の広い彼を、私は慌てて追いかけた。
あれからは、雨の日が何日も続いている。
私はまた丸くて優しい音に包まれたいと願いながら、毎日窓から海を見て過ごしている。
ひと月経って、この寂れた町を離れたら、私はそのあとどうするのだろう。
まだ先のことを考えられるほど、傷は癒えていない。
雨があがり、冷たく乾燥した季節がやってきた。
秋に訪れたはずなのに、もう冬の初めのように寒い。
それでも毎日、私は彼のホルンの音を聴くために、堤防に通った。
彼が奏でるホルンの音は、私の意識を海の底へ連れていく。その場所には私を傷つけるものはなにもない。固くて尖った石も、冷たく刺す水も、私を押し流す海流も、なにもない。私は安心し、膝を抱えて丸まっている。
ここにずっといれば、私はもう傷つかない。理不尽に無視されたりしない。嫉妬もされない。
「あずささん」
彼に声をかけられて、私は現実に戻る。
もうすっかり日課になった。
何日も何日も、こうして私の傷は少しずつ消えていった。
なにかに傷つけられることは決してない、という場所にいられることが、こんなにも私を救うということを、私は初めて知った。
「ありがとう。今日も傷の治療ができた」
私の言葉に彼はホッとして微笑んだ。
「もうホルンを吹いてもなんの意味もないって思ってたけど……あずささんが意味をくれた。救われてるのは俺のほうかもしれないね」
彼は私の前に膝を立てて座った。
私達は見つめあったまま、どちらも言葉を発しなかった。
どんな言葉も、今の気持ちを表すには少し違う気がした。だから私達はなにも言わずにキスをした。長い、長いキスだった。
民宿『うしお』に滞在して三週間が経った。
あれから彼とは時々キスをしたし、彼がそっと抱きしめてくれることもあった。しかしそれより先には進まなかった。
私達は気づいていたのだと思う。
新たな一歩を踏み出すためだけに、お互いを必要としていることを。その踏み出す一歩が、違う方向になるだろうということを。
滞在も残り四日。
小雨が降り、そのせいで寒さが進むような、冷たい昼間だった。
私は女将さんと一緒に、町の小さな雑貨店に、傘をさして、徒歩で買い物に出かけた。
少し離れたスーパーに車で行けば、安いものがいろいろ手に入るが、田舎では多少高くても、地元の店がつぶれないよう、お互いに助け合うのが暗黙の了解になっていた。
狭い範囲でぐるぐるお金が回っているだけなのではないか、と思ったが、この町で生きていく人達はそんなこと、きっと承知している。
それがここで生きていく術なら、疑問も持たず、改革もせず、なんでも従う。
そういう生き方もある。
薄暗い雑貨店で、女将さんは乾物やお風呂の洗剤などをカウンターに置いた。
店番のおばあさんと世間話を始めているのを聞きながら、私は店の隅に小さなかごバッグが吊るされているのを見つけた。
夏の売れ残りなのだろう。うっすら埃が載っている。
紙とポリプロピレンを合わせて編んで作ってあるらしく、触ると柔らかく、使いやすそうだ。
かわいいな。
私は想像した。
そのかごバッグの持ち手に薄い黄色のハンカチを結び、真夏のギラギラした太陽の下で、それを提げて歩く自分を。自然と、隣には誠二郎君がいた。
「あずささん、それ、買ってあげようか?」
女将さんが声をかけた。
「えっ。買うなら自分で買いますよ」
「買ってあげるって。この町に来た記念に」
この町に来た記念。
胸がギュッと詰まったように、切なかった。
「お姑さんには甘えるのが一番だよ」
お店のおばあさんがガハハと笑った。
「お姑さんにはなれなかったのよ~」
女将さんも話を合わせて笑った。
結局、かごバッグは買わなかった。後ろ髪引かれるような思い出を持ち帰ることがためらわれたからだ。
このひと月、大切にされて、私は傷を癒すことができた。もうすぐ元いた場所へ戻る。仕事を探し、満員電車に疲れ、街も、店も、職場も、どこにいても殺伐としている場所に帰る。鎧を着て自分を守るような、そんな生活をまた始めて、ふとあのかごバッグを見たら、きっと安易に逃げ出してしまう。そう思った。
雑貨店を出て、傘を広げようとした時だった。
「あんた、大丈夫かい」
おばあさんが女将さんに小声で問いかけた。
女将さんは一瞬泣きそうな顔になったが、無理に笑顔を作って、うん、と頷いた。
帰り道、坂をゆっくり登りながら、私は尋ねた。
「なにかあったんですか?」
「え?」
「さっき……大丈夫かって」
「ああ、なんだろ。誰かと間違ってるんじゃない?」
いやいや、そんなわけないでしょう。
そう思ったが、口にできなかった。
しばらく歩いていると、左手に小さい旅館があり、その旅館の玄関前の軒下で立ち話をしている三人の女性がいた。
たしか、そのうちの一人はその旅館の女将さんで、ほかの二人もこの辺りの民宿かなにかを経営してる人だったように記憶している。
狭い町にひと月滞在し、しかもシーズンオフともなると、本当に人が少ないので、何回か見た顔は覚えられる。民宿『うしお』も、あの人達も、観光組合とかいうのに所属していて、町起こしやお祭りなどで協力し合うという話を小耳にはさんだことがあった。
女将さんが
「こんにちはー」
と少し大きめの声で挨拶したので、私もつられて会釈をした。
すると、立ち話をしていた三人は、女将さんを一瞥してから、申し合わせていたかのように、無視したのだ。
気づかなかったんじゃない。だってそろって女将さんの姿を確認したもの。女将さんはわざと大きい声で挨拶したもの。
「女将さん?」
「いいから」
女将さんはその三人に顔を見られないように、傘で顔を隠し、歩きだした。
女将さんの大きくてキラキラしていた眼に、半分瞼が覆い被さっている。表情が死にそうだ。
私の脳裏にフラッシュバックしてくる記憶。
『木戸さん、あちこちに色目使うよね』
『仕事できます、頭いいです、みたいな』
『顔も体もいいでーす、じゃない?』
『男の許容範囲、広すぎー』
『キモいんですけど。無視無視』
同僚達の無視と悪口。
誰も、一度も、庇ってくれなかった。
秘書課の仕事は回らなくなっていった。
女将さんの死にそうな顔は、少し前に私がしていた顔だ。
「ちょっと!」
私は自分を抑えられなかった。
大人として正しくないかもしれない。それでも……。
私は傘を三人の女性の近くに投げた。当たらないように投げただけでも、良しとしたい。
「なんでこれみよがしに無視するんですか?」
私がずかずか近づいて怒鳴ると、三人は一歩引き、わざとらしく
「やだあ、なに?こわいー」
と言った。
被害者ぶりたいのだろう。
「集団での無視がどのくらい威力あるか知ってます?どれほど相手を弱らせるか知ってます?」
真ん中の女性は私を睨んでいたが、両端の二人は困ったような表情になった。
「女が集団で無視するときって、いつの時代も嫉妬なんですよ?歴史学者の研究でそういうのがあるんだから!」
私はいざとなると嘘がうまい。
「嫉妬したければすればいいですよ。でもね、大人なんだから!お・と・な!大人なんだからね!表面上だけは普通に接しましょうよ!心の中でいくらでも嫉妬したり悪口言ったりすればいいんだから」
私は思った。あのとき、こう言えていたら、と。
でも、何年もの無視やセクハラで、心が弱ってしまった私にはできなかった。
ここに来て、毎日傷を癒してもらえたから、立ち向かう力を得られたんだ、きっと。
「あずささん……」
女将さんに腕を捕まれて、軽く引っ張られた。
「ありがとう。でもこの人達、本当は親切な人達だから……」
絶対それはないでしょ。
私が言い返そうとして女将さんのほうを見ると、女将さんの顔つきは先ほどとは逆のドヤ顔で、笑顔になりそうなのをこらえていた。
ハッとした。今のは嫌みだ。わざとこの人達の前で言ったんだ。
本当に親切な人なら、無視なんてしない。女将さんに『親切な人』に認定させられてしまったのだ。
無視した三人の女性を盗み見ると、気後れしたように、視線がおどおどしていた。
女将さんの嫌みのひと言で、もう無視をやめなければならなくなるだろう。
私は傘を拾い、
「女将さんがそう言うなら……」
と言い、その場を離れた。
私達はまたゆっくり坂を登って、歩き始めた。
「あずささん、ありがとう」
女将さんは囁いた。
「味方が一人いるって、最強ね」
「女将さんの嫌み、グッジョブです」
「もうずっとあんな感じでね、胃潰瘍になっちゃってたんだけど。あずささんのおかげで、胃の穴もふさがりそう。ふふ」
女将さんはやり返したのが心底嬉しかったらしく、しばらく口角が上がっていた。
民宿『うしお』に到着し、玄関の引戸をガラガラ開けながら、私は訊いた。
「なんで無視されていたんですか?」
女将さんは眉を下げ、苦笑した。
「あそこの旅館の旦那さんがね、この町で私が一番きれいだって、会合の帰りに言ったんだって」
「この町でって……対象人口、少ない……」
「ね……」
私はなんとも返答のしようがなかった。あの人達の嫉妬がかわいい気さえした。
私がさんざん苦しんだ無視や嫉妬やセクハラも、外から見れば、簡単に交わしたりやり込めたりできるようなものだったのかもしれない。
そう思えるようになったのは、あのホルンの音に包まれて、心を回復させることができたからなのだと、私は実感していた。
「明日、母さんが駅まで車、出すから」
お別れの前日、堤防の上でホルンを吹いていた彼が、ふと、マウスピースから唇を離して、そう言った。
俺は送らないよ、と言っているのだと、すぐに理解した。
「わかった。ひと月、ありがとう」
彼はそれには返事をせず、またロングトーンを続けた。
ポー、という長い音。
丸く、温かい、彼が奏でるホルンの音。
もうその音は私を海の底に連れていかない。
私は膝を抱えて丸まってたゆたうだけの、傷ついた私ではなくなった。
私は最後まで、彼と女将さんに、会社で何があって、それが何年続いて、病んでしまったのか、話すことはなかった。尋ねずにいてくれたことに感謝している。いつかまた来ることができるから。
「最後に、キス、する?」
私はわざとふざけて尋ねた。
しかし彼は笑わなかった。
初めて会ったときと変わらない、驚くほど整った、少し中性的な顔で、真面目に言った。
「しない。でも……」
彼は少し躊躇した。
「でも、あずささんのために一曲演奏する」
彼は耳まで真っ赤になって、海の方角にくるっと姿勢を向けた。
深く息を吸ったあと、彼のホルンから流れた曲は『星に願いを』だった。
願いはきっと叶う。
何度もホルンは繰り返す。
願いはきっと叶う。
願いはきっと叶う。
バカだなあ。好きになっちゃうよ。
誰かを好きになれるほど、私の痛みは消えていた。
いつかまた、彼のホルンを聴きに、この場所に来よう。
私は彼にばれないように、涙を指で拭った。
最初のコメントを投稿しよう!