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母と歩く雨の日。それは私にとって特別な意味を持つ。幼いときの、あの青い傘の出来事があるから。
今では言葉少なになってしまった母だが、そのことが脳裏によぎっているのかもしれないなどと淡い期待を抱きながら、私は散歩に出る準備をした。
透明なビニール傘はもうやめて、二人で入れる父の大きな黒い傘を借りて家を出た。
サアッ、という音が似合う、静かな外。大きな黒い傘の下で、私と母。私たち以外はまるで別世界と言わんばかりに、この傘の下は私たちだけの世界だった。
ゆっくりと杖をつきながら、遠いどこかを見つめる母。何かを思い出しているのか、ねじりの下がった穏やかな笑みをずっと浮かべている。母は母なのだけど、小さな身体に白髪頭を整えて、ちょっとだけおめかしした母は、なんだかいかにも『おばあちゃん』といった感じがして、妙に可愛く思えた。
街並みを抜けると田園が広がる。「どこまでいこっか?」と問いかけるも、母はずっとにこにこしたままで何も答えてくれない。嬉しそうな表情を崩してほしくないから、私はそのまま母の隣を同じ速度で歩き続けた。
三十分も歩いた頃だろうか、田園の向こうを下ったところに、緩やかなS字カーブを描いた川が見えてきた。
懐かしい。子どもの頃、自転車で来ては遊んでいた川だ。川も、故郷も、記憶の景色とほとんど変わらずそこにある、ということが、なぜだかずいぶんと沁みた。
「ほら、あそこに川が、見えるだろ? あそこでうちの娘たち、がよく遊んでたんやよ」
「――え?」
母の指が、少し震えながら川を指していた。微笑ましい何かを見るようなやさしい目は、けっして隣にいる私を見てはいなかった。
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