Stop,Watch,Me

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 梅雨が続く鬱陶しい水曜日、先輩は突然町からいなくなった。前日の夜、最後に会ったのは私だった。そのせいで、私は断ることもできないまま、先輩の両親、先輩の知人や友人たち、そして警察や学校関係者に至るまで、様々な人々から質問の雨を浴びせられることになった。しかし、私は火曜日の夜、先輩とラーメンをファミレスで食べて、雨の中公園で少し話して、そこでお別れしたので、それ以上のことは何もなかったし、何も覚えていなかった。私の返答に対して、ある人は私を疑い、ある人は私を役立たずと吐き捨て、ある人は私が悪いと言いがかりをつけてきた。週末、私は嫌になってアルバイトを休み、県立公園に出かけた。  その日も生憎の雨で、特段目立った施設や風景のない、広さだけが自慢の公園には、私を除いてほとんど人がいなかった。私は誰もいない公園で、二年前の大会の日を思い出すように、ベンチに腰掛けてグラウンドを見つめていた。  私と先輩は同じ学校の陸上部の間柄で、私は足を怪我してすっかり走れなくなり根腐れしたマネージャーで、先輩は学内でも人気な走ることに全力を注ぐ暑苦しい主将だった。私がマネージャーで残っているのが学校に推薦で入った手前、故障とはいえ部活を去るのが気が引けていたからで、出来ればなるべく顔を出したくないと思っていた。一方部員全員の様子を気にしてしまう先輩は、私が裏でさぼっている姿を見るたびに声をかけてきてので、私は鬱陶しく思っていた。だから雨の日、自主練習に変更になると私は意気揚々と部活を休み、かといってすぐに家に帰りたくもなく、結局この公園に来ていた。私はこの公園で行われた高校時代最初の大会で足を痛め、そこから競技者としての生活は断念していた。それを悲劇とは思わない。誰もが起こりうる終わりでしかないと思う。私はここにきて、家で母のカバンから盗んだ煙草に火をつけてふかしていた。その日もほとんど人がいなかった。  「それ、学校辞めることになっちまうぞ。」  突然背後から、先輩の声がして、慌てて振り返った。防水性のランニングウェアをまとった先輩が立っていて、すぐに私の口元から煙草を奪った。  「それに、肺がんのリスクも高まる。」  私のお気に入りは雨に打たれて火を失い、くたびれてしまった。適当なゴミ袋に捨てられて、私は同情したい気分になった。そんな私にお構いなしに、先輩は私の隣に座ってきた。私は立ち上がりたい気分でいっぱいだったが、先輩はそのまま私の方を真っ直ぐ見つめて話しかけてきた。  「なあ、俺のこと、嫌いか。」  突然の質問に全く理解できなかったが、とりあえず首を横に振った。  「それじゃ、陸上が嫌いか。」  その質問は既に何十回、何百回と自問したが、答えが決まってないので動けなかった。それを見て先輩は溜息をつく。  「やっぱりお前ぐらい走るのが上手で、ずっと走ってきたやつでも、この種目ってしんどいんだな。」  その答えは意外だったので、ますます私はこの人が理解できなかった。先輩はつづけた。  「俺は中学から陸上を始めて、最初は陸上部なのに百メートル走でクラスの半分ぐらいに負けるぐらい、遅い奴だった。それが悔しくて走り方を工夫して、勉強そっちのけで研究して、気づけば県大会で一位になれた。でも、そしたら全国大会で最下位だった。高校に上がったらまた全然勝てなくなった。圧倒的に速くて手も足も出ない気分だった。手足ともバタバタさせていたのにな。それなのに、その年の全国一位が全日本で予選で負けて、日本最速が世界陸上で予選落ちして、世界には百メートルを九秒台で走る者がいて。この戦いは死ぬまで続くのかって、吐き気がした。」  私はこの話の終わりが読めずに、ただ黙って聞いていた。一度溜息を吐き、先輩は最後まで話してくれた。  「だから、お前が鳴り物入りで入部し、それにもかかわらず高校1年で怪我して選手生命が絶たれたとき、可哀想よりも、良かったな、って思ってしまった。それなのに、お前はマネージャーとして部に残り、今でもみんなに頼られる存在でいてくれている。俺は、そんなお前を見て自分の弱さに気づけたんだ。だから、お前がいてくれることを、俺は感謝しているし、チームメイトとして誇りに思っているんだ。」  私は、突然の告白に、心臓も息も止まりそうだった。  「そんなお前が陸上を好きなのか、分からないって言ってくれて、ますます好きになったよ。お前ですら迷うんだから、俺みたいな凡才は迷って当たり前。自分が速くなりたい、っていう気持ちだけを信じることにしたよ。だから、お前が嫌じゃなきゃ、もう少し、出来れば俺が走るのを止めるまで、そのストップウォッチを、お前に押してもらいたいんだ。」  マネージャーの証ともいえるストップウォッチ、それを指された。やはり暑苦して、うるさい人だとも思えた。でもそれだけじゃなくて、みんなを、それこそこんな私のことも、よく見ている人なんだと思えた。  私は小さくうなずいた。先輩は笑顔になって、そしてクラウチングスタートの構えを取った。雨の日のグラウンド、敵は誰もいなかった。  「早速だけどさ、見ててよ。」   私は、構えた。そして、合図を出した。  雨の中、あの人は全力で走った。その姿を私はまぶしく、目を細めて見つめた。雲間から光が見えてきた。
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