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「クライアントによくペテン師と疑われた」
「辞めて正解だ」
口を挟んだ兄を弟が睨む。軽くいなした兄は弟のグラスに麦茶を足した。溶け残った氷が高い音を立てる。
「うん、まあでもよかったかもね」
「売れない物書きでもか」
「畑仕事してれば食うには困らないし」
それにこの辺りでは年配の女性にもててもてて、よくお裾分けに預かるのだと暁人が笑う。つられて笑った阿南はそっと水のなか沈んでいたミニトマトを箸で抓んだ。
「先生は」
「うん」
「どうしてこの町に来たんですか」
池内が新人教師として赴任してきたのは二年ほど前のことだった。田舎の学校には珍しいくらい都会的な男性教師に女子生徒のみならず若い女性教師までもが色めきたった。
阿南は彼の来歴を知らない。以前の職歴、出身地。県内の出ではないのだろうというくらいしか察しがつかない。
薬味を加えながら池内は口元だけで笑った。唇は完璧に閉じている。
「秘密」のポーズなのだと少しして気づく。弟は兄に倣うのか口を挟まず麺を啜っている。
阿南はミニトマトを口に含んだ。自家製なのか皮が厚くてとても酸っぱかった。
腹がはち切れそうになった頃、金魚鉢はようやく空になった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
いとまの挨拶をして玄関に向かう。池内が見送りに来た。弟は洗い物をするのか食器を片づける音がしている。
「俺が剣道を辞めたのは二十歳のときだったよ」
スニーカーを履く教え子に、框に立った池内が言う。咄嗟に見上げると彼は腕を組んでいた。その端正な顔に表情はない。
けれど、
「もう少し、続けなさい」
眼鏡の奥の眸が優しかった。
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