夏雨

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ひやりとした風が吹き始めて阿南は首を竦めた。ぽつりぽつりと雨粒が腕や髪に落ちて、やがてざあざあと激しくなる。池内宅に戻りついた頃にはシャツから水滴が滴って上がりこむのも躊躇う有様だった。 「先生、先生っ」 引き戸を開けて叫ぶけれど雨音が瓦屋根を叩く音に紛れて届かない。迷って、シャツを絞り頭を振って水気を切ってからそろそろと廊下を進んだ。 「あんたが落ちこんでどうすんのさ」 弟の声がしてふたりが居間にいるのだとわかる。 「元気だしなよ」 「何にもしてやれなかった」 池内の沈んだ声が聞こえる。 雨樋を流れる水の音。庭で鳴く逃げ遅れた小さな虫の声。夏の雨を柔らかく包むように弟の声が兄に触れる。 「あんたはいてあげればいいんだよ」 それきり話し声は途切れて、阿南は立ち聞きをした気まずさのままに居間を覗いた。 暁人の長い指が池内の黒い髪を掴む。なでるように放して唇を池内の顳顬に当てた。慣れた仕草で頬のうえをスキップして簡単にキスを渡す。 池内の腕が暁人の首にかかる。引き寄せて口づけは深くなった。 あ、と思った時には遅かった。阿南の右手から自転車の鍵が滑り落ちて廊下を叩く。小ぶりの鈴が澄んだ音を響かせて、二人が振り返った。 目の合った池内が思わずといったふうに眉を寄せる。 ぱっと赤面した阿南は鍵も携帯電話もそのままに駆け出した。けれど動転しているので足がもつれて上がり框から落ちる。 大きな物音に兄弟は慌てて居間から飛び出してきた。 「阿南」 大丈夫かと、池内の先生らしい問いに少年は応えられなかった。三和土に座りこんで下を向く。しばらくそのままでじっとしていると、そっと足音が寄り添った。
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