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雨が降ってきた。
コンクリートの道が斑に色づき、ムワッとした埃のような匂いが鼻につく。
家の前の道を小学4年生の私と同じ背丈ぐらいの女の子が、赤い傘を差して足速に通り過ぎて行った。私は玄関の脇に隠れてその赤い傘を見送ってから、小さな門扉を開けて外に出た。傘を差さずに雨に打たれる。
「どうして今回の課題は『雨』ではなく『雨音』だったんだろう」と考えながら。
鈍色の空。
空を見上げると冷たい雫が顔に当たる。冷たい。髪を濡らした雨は肩に滴り落ち、私の青いTシャツはグラデーションを作り始めていた。夏が近くてもやはり雨に濡れると肌寒かった。
空を見上げ、目に雨が入るとちょっと痛い。
口にも雨が入る。でも味は、分かんないや。
小さなため息をついてもう一度空を見た。あっちの空は、油絵具を濃く重ねたようにどんよりと曇っていた。「あーこれは容赦無く降ってくるな」と誰もが思うような雲。だから私は歩みを止めて、雨に打たれるのはこんなもんにしようかと考えた。
気がつくと自宅から100m程の交差点にまで歩いて来ていた。雨に濡れると少しだけ全てが洗い流される様で気持ちいい。だけど、濡れて張り付いた服は気持ち悪いし、重くなった靴の不快感は最悪だ。
手のひらで雨粒を受けてみる。
そして私は今日の課題は「どうして『雨』ではなく『雨音』だったんだろ」ともう一度考えた。
音はない。
こんなに濡れても、やはり私に雨音はなかった。
静かな粒が体に当たり、弾けて飛ぶ。
私、小夏未夢は聾者で、先天的に全く音が聞こえない。
だから私に雨音はなかった。
私は近所の絵画教室に通っている。割と大きな絵画教室で美大を目指す人の本格的なデッサンから、近所の人の油絵や水彩画、そして私のような小学生まで色んな人が習いにきていた。その絵画教室では定期的に絵の課題が出た。それが今回『雨音』だったのだ。『雨』ではない『雨音』だ。別に課題をやらなかったから怒られるとかそう言う事はなかったけど、私、結構本気で絵画に取り組んでいたから、この課題からも逃げたくなかった。優秀作品になると美大生候補の人に混じって作品がみんなに発表されたり飾られたりもしたから俄然やる気も出たし。
だけど『雨音』という課題が出た時にちょっと戸惑った。髭の先生は私が耳が全く聞こえない事を知っている、そして意地悪をするような先生でもなかった。寡黙な先生で何も言ってくれなかったけど、きっと何か意味があるのだろう。
だから私は『雨音』を今一度考えてみた。本当に私には分からないんだろうか? そう思って不意に雨降る外に出てみたのだ。感覚を研ぎ澄ます。雨音をつかみたい。だけどやっぱり『雨音』は耳に聞こえなかった。
落胆し恨めしく思って上を向いた時、パッと目の前に紺色の傘が飛び込んできた。超ビックリして飛び退く。心臓が跳ねてバクバクする。後ろを向くと、学校帰りのユウ君が傘を手に立っていた。私より背の小さなユウ君、春森優彰君。家がご近所の幼馴染だ。久しぶりだった。心臓がまだバクバクしていた。
みんなは良く「心臓がドキドキする」などと言うけども、本当にみんなはドキドキなんて音が聞こえているのかな? だったらヤダな。たぶん今の私はドキドキなんて可愛いものではなくバクバクって格好悪い音を出している。
私は、怒った顔でユウ君に「ビックリするから、急に後ろに立つな!」と手話で伝えた。
キョトンとしていたユウ君。あ、そうよね。手話はわかんないもんね。
そう思った時、ユウ君は傘を突き出して私を傘の中に入れた。
バクバクバクと言う音が聞かれそうで怖かった。
小学校に上がるまではユウ君とは良く一緒に遊んだ。私は第1言語が手話だから、ユウ君と話らしい話はできなかったけど。だけどお調子者のユウ君は良く踊ったり、ヒーローの変身ポーズをして走っていったり、いきなり虫取り合戦がはじまったり、単純だからなんとかなった。ボディランゲージが大げさでバカ。だからそんなに言葉がなくても、あの頃は割と楽しく遊べた。
まあ、とは言っても、やっぱり意味が通じなくてよく喧嘩もしたんだけどね。そして、私が勝ってよく泣かしたけどね。ごめんね。
4年生になったユウ君が後ろに立っていた。
彼は私を良くビックリさせる。
サプライズと言うか、なんと言うか……
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