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意識の彼方から、かすかに音が聞えてくる。
昔、放送が終了した後のテレビに流れていた、砂嵐のノイズ音のような何か。音は時折途切れながら、少しずつその輪郭を鮮明にしていく。
「雨だ!」
食卓で居眠りしていた琴子は、飛び起きてベランダへ走った。
いつから降り出したんだろう。気象予報士は「夕方まで大丈夫」って自信満々に言っていたのに。
琴子は大慌てで洗濯物を取り込んだ。今日は久し振りに晴れたので、外干しにしていたのだ。朝の五時起きで家族のお弁当と朝食を作り、夫のワイシャツにアイロンをかけ、小学一年生と四年生の子供たちを学校へ送り出す。そして洗濯や家中の掃除を終え、やっと一息ついたところだった。そのほんのわずかの間に降り出した雨のせいで、せっかく乾いていたはずの洗濯物は、全部ずぶ濡れになってしまった。
こんなことなら、外なんかに干さなきゃよかった。
けれども琴子は、夫や子供たちの衣類や下着に埋め尽くされた部屋で過ごすのもうんざりだった。だから天気予報を入念にチェックして、今日なら大丈夫と思って外に干したのだ。
しばらく立ち尽くしたまま、琴子は洗濯籠につめこまれた無残な布きれの山を呆然と眺めていた。全部洗い直さなければいけないのは誰の目にも明らかだった。
激しい雨音は続いている。今から洗濯機を回して、今度こそ部屋干しにして、ぎりぎり明日までには乾くかな……なんて前向きな考えは一切頭に浮かんでこない。それどころか琴子は、リビングに向かって洗濯籠をまるごと思い切り放り投げた。そして財布と傘だけ持って外へ出た。
もう限界だ。何でこんな誰からも褒められない家事に忙殺されながら、毎日を生きていかなきゃいけないんだ。
25歳で結婚し、十年が経とうとしていた。小さなIT企業の社長である夫に言われるまま、専業主婦になった。琴子には、本当はアパレルの世界で自分のブランドを立ち上げたいという夢があった。それほど好きでもない夫と結婚したのは、その財力に少なからず魅力を感じたからだ。けれども勤めていたアパレルメーカーを辞めて結婚した途端、夫の会社の業績は伸び悩み、妻の夢に出資するどころではなくなった。そのくせ夫はプライドだけは強く、子育てを分担して職場復帰することも許されなかった。子供たちも我が儘ばかりで、母親への気遣いなど皆無に等しかった。
傘に叩きつける騒々しい雨音を聞きながら、琴子は近所の住宅街をあてどなく歩いた。スマホも置いてきてしまったから正確な時間はわからないが、おそらく二十分ほど歩き回った頃、琴子は住宅街の外れの通り沿いに、一軒のカフェがあるのを見つけた。古民家の一階部分を改装して作られた品のある佇まいの店だった。時々しか通らない道で、以前は見かけなかったから、最近オープンしたのだろう。
外からも見通しの良い店内には、大学生くらいの若いカップル、そして白シャツと細身のデニムをさりげなく着こなす、店主らしき女性の姿があった。
激しさを増す雨脚に背中を押され、琴子は店の中へ入った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
女性店主は、雨に負けない晴れやかな笑顔で琴子を迎えた。近くで見ると自分より四、五歳は若い女性だった。入り口の隅に置かれたおしゃれなアイアンの傘立てには、カップルのものであろう傘が二本立てかけてあった。
琴子は入り口に一番近いテーブル席についた。背中側のテーブル席にカップルがいる。お手製のかわいらしいメニューに目を通し、琴子はアイスオーレを注文した。
相変わらず雨脚が弱まることはなく、店の軒先や通りを叩きつける雨音が店内に響いていた。
「前に話したっけ?私、雨の音を聞いていると何だか不安になるって」
女の子の方が(おそらく)彼氏に言った。
「いいや、初めて聞いたよ」
彼氏が言う。すぐ後ろの席に座る琴子には、彼らの会話は筒抜けだった。
「私のお父さん、電力会社に勤めていてね、子供の頃、ずっと山奥のダムの近くの社宅に家族で住んでいたの」
「そうなんだ……」
「周りにお店も他の家も何にもないし、学校には毎日、渡し船に乗って川を渡っていくの。そんな過疎地っていうか秘境みたいな所だから、雨の降り方も極端で、いつ川が氾濫するんじゃないかって、いつも怯えながら、怪獣の雄叫びみたいな雨音を聞いてたんだ」
「どこで?」
「どこでって、社宅の部屋の中だよ」
「そっか。小さな子だったら、なおさら怖いよね」
彼氏は、グラスの氷をかき混ぜながら、彼女の話に同調した。二人はしばらくの間、無言で店内に鳴り響く雨音に耳を傾けていた。
やがて彼氏が口を開いた。
「僕はね、逆に雨音を聞くと心が安らぐんだ」
「あー、知ってる。1/F(エフぶんのいち)ゆらぎとかいうやつでしょ。焚き火の音とかと一緒で自然界にもある音。落ち着くっていう人、多いよね」と、彼女がすかさず解説を加える。
「うん、それもあるかもしれないけれど、僕の場合はたぶん少し違う理由なんだ……」
「違う理由?何、何」
「あのね、僕、小学生の頃、養護施設を一人で脱走しちゃったことがあってさ」
「……」
「二日間、一人で野宿してたの。運が悪くて、その時はたまたますごい豪雨だった。橋の下でびしょ濡れになりながら、ずっとうずくまっていたんだ……」
「……」
「そんな経験があるから、今みたいにこうして濡れずに部屋の中で雨音を聞いたりしていると、しみじみ自分は幸せだなって思ったりするんだよね」
「……」
しばらく彼女の声が聞えない。おそらく涙を浮かべているのだろうと琴子は思った。琴子も彼氏の話を聞いて、思わずこみ上げてくるものがあった。どういう経緯で養護施設に入り、そこを抜け出そうとしたのか。色々な想像が頭を巡ったけれど、いずれにせよ、彼が小さな子供の心では抱えきれない問題に巻き込まれたのは間違いない。
琴子は、彼が今、こうして大切な人と穏やかな時間を過ごせていることを、自分のことのように嬉しく思った。
雨音は変わらず、店内をせわしなく駆け巡っていた。カウンターから外を窺っていた若い女性店主に、先ほどの晴れやかな笑顔はなかった。芳しくない客の入りを気にしているのかもしれない。この辺りで一年以上続けられたお店を、琴子は見たことがない。都心からも駅からもほど近い場所だが、商売の世界というの想像以上に厳しいのだろう。けれども琴子は、細部まで丁寧に作られたこの店の雰囲気が好ましかった。そして、こだわり抜いて良いものを提供しようとしている若い店主には、尊敬の念しかなかった。
外の通りに目をやると、雨に濡れながら荷物を抱えて走り去る宅配のお兄さんの姿が見えた。他の小学生のグループから離れ、とぼとぼと一人で傘を差して歩く男の子の姿が見えた。杖を突きながら少しずつ前へ進もうとしている、今にも倒れそうなお婆さんの姿が見えた。
みんな、自分の人生を懸命に生きているんだな。
琴子は会計を済ませ、傘をさして外へ出た。雨が猛烈な勢いで傘を叩きつける。変わらず激しい雨音が頭上に響く。お婆さんに、大丈夫?と声を掛ける。お婆さんは一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに笑顔を見せて頷いた。
琴子は早足で家へ向かった。もうすぐ子供たちが帰ってくる時間だ。琴子はふと傘を閉じ、全身で雨を浴びてみた。雨音は、どこか、大勢の観客たちのスタンディングオベーションのようにも聞こえた。
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