『タクシードライバー』

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 耳を貫く様なサイレンが私たちを襲った。まさかまさかとバックミラーを覗き込むとそこには赤光線を放射するパンダの様な車が映る。拡声器を通したくぐもった声がこのタクシーへの停止を促す。はぁああああ、と底深くため息をつく。正気を取り戻した野口さんが路肩に車を寄せる。パトカーから降りた警察官がこちらへ近づいてくる。後部座席の私はただただ空を眺めていた。  「いやー、運転手さん結構飛ばしてましたねー。ダメですよー。ここ一般道なんでね」    わずか二分前のあの高揚はなんだったんだろう。己の滑稽さに自嘲気味に笑う。でもなんだろうか、警察官に免許証を取り上げられうなだれているおじさんの顔を見てると、なんだか愛らしさと馬鹿らしさでこの笑いが卑屈さではなく温かいものへと変わっていく様な気がする。そうだ、これが私たちだ。何も変わらない。何も変われない。まあそれでもいいじゃないか、また別の道を行こう。別の、よくある道を。    あぁ、雨が上がった。     ◆  「はぁ………」    会社の入り口でため息を漏らす。なんじゃあこりゃ。すごい雨。あれか、ゲリラ豪雨か。まいったね。とりあえずバッグからスマートフォンを取り出しロックを解除し二秒眺めてまたバッグへ。別に用もない。ただのルーティン。  さてさて、このざんざか雨の中をあっしはどう帰ったものかね。本日はお洗濯日和だよんと言ってのけた気象庁様を信じた私に雨具はない。さりとてこの雨は勤務明けの身体にはちょいと冷たすぎる。どうせ隼人は迎えになんてこない。知ってる。さてどうしたものか。    そのように弱り果てる私の前を一台のタクシーが横切った。なるほどタクシーかそれもいいかもしれない。なにせ今日の私はよく働きよく怒られよく泣いた。ちょっとばかしの贅沢をしても神様は許してくれるだろう。あのクソ係長は許してくれないかもしれないけど。    折よくもう一台のタクシーが近づいてきて私は右手を挙げる。黄色いそれが止まり後部座席のドアが開く。これ便利だよな。お姫様みたいだと子供の頃は思っていた。私はできる限り濡れないようにさささっと車内に転がり込む。おてんばお姫のご入場。従者……ではなく運転手のおじさんにマンションの番地を告げる。あいわかったとおじさんはシフトレバーをドライブに入れる。左に点滅していたウインカーの音が一旦止んで入れ替わりに右のウインカーがカチカチと鳴る。頃合いを見てすうっと車の流れにに乗り戻る。  すうっと発進した車内はスゥーっとした。心地の良いエアコン。7月の気だるい暑さと雨のじとりで蒸されていた体が清涼化されていく。うむ。具合がいいぞ褒めて遣わす。  お姫気分の残る私は運転席のヘッドレストに引っ掛けられた顔写真付きの従者の名刺を見る。野口さん。なるほど運転手のおじさんは野口さんと言うのか。なるほどなるほど言われてみると確かに野口らしい顔だ。野口度80%くらい。いい冴えなさだ。流石プロだけあって運転は上手い。というか普通。普通に上手い。やるもんだね野口さん。私はバッグからスマートフォンを取り出しロックを解除する。そしてまたしまう。あぁまた。隙があるとやっちゃうなこれ。    窓の外はあいも変わらず雨ゲリラさんが街を襲ってらっしゃる。隼人はいつ働くのだろう。遠くが見えない街を眺め思う。ひとり暮らしの我が城に奴が転がり込んできてもう三年。四つ年下の男。可愛かったな最初は。    うーーーーーん…………イケメンだったんだよ。ぶっちゃけ。そんだけ。髪が明るくて顔が良くてさ、なんか知らんけど妙に自信があってさ、産まれ落ちて25年経っても男という生き物にたいして触れる機会のなかった私はグラッときちゃったんだなこれに。そいでいつの間にやら家に住み着かれいつの間にやら飯を食われいつの間にやら下の世話までさせられて出来上がったのが24歳イケメン無職様と、そいつの餌代その他交際費に月収の6割を持っていかれる28歳OLさんの今日現在。あまりにもありふれている。ドラマにもならない。  はじめはステイタスだったあいつの顔も、このところは腹の立つことが増えてきた。窓に反射する自分を見るあいつ、前髪を弄るあいつ、男のくせに自撮り盛るあいつ、SNSに絶対私のことを書かないあいつ、店員が女の時だけ愛想のいいあいつ、あーだめだ腹立ってきた。誰の労働賃金で飯食ってクソして寝てると思ってんだあのパッキンヒョロリめが。   「雨、酷いですねぇ」  不意に野口80%が呟いた。私は毒づく心を悟られたようでびくりとする。も、ここは大人の女として愛想良く返じてみせる。 「えっ、あっ、そう……ですね」    なんだそりゃ。葬式で知らんオヤジに声かけられた中坊か私は。  話は続かなかった。気まずい。なんてことだ。お互い黙っていた間はなんとも感じなかったこの沈黙が途端に苦しくなった。これ私のせいか?思春期坊主の様な返答しかできなかったアドリブの効かない私が悪いのか?いや、自分から仕掛けてきといて雨以外の武器を用意してなかった野口に非があるか?いやいやそもそもとして運転手と客の会話なんてこんなもんか?気を揉みすぎなのか?    私はバックミラーをちらりと見る。目が合ってしまった野口さんが慌てて目を伏せる。ああああ気まずくなってるじゃん、あちらさんも気まずくなってるじゃんか、考えすぎじゃないじゃんか。どうしようどう乗り切ろうこの地味さ極まる危機をどう凌ごう。もう一度野口さんが口を開くのを待つか?いや、すでに向こうはジャブを打った。今度は私の番であろう。私が無難を投げ野口さんが無難に打ち返すそんな当たり障りなき大人の会話で家までの残り10分少々なる時間を稼ごう。よしいこう。  「あの………」  「ゲリラごう……」    あああああ被った。なんてこと。たけのこなんたら言うゲームのようだ。なんてこと。そして再び沈黙のタクシー。    なんてこと。    ドキドキドキと胸の鼓動が高く鳴る。やめろなにその表現やめろ。ドキドキ。やめんかい。    世間一般婦女子であるならばクラスメイトの気になる彼と手が触れ合っただの憧れの先輩に頭撫でられた場合だのに繰り出されるはずの胸の高鳴りをなんで私だけタクシーのおじさんとの気まずさで味わう羽目になっているのだ。なんだこれちくしょう。どうして私の生活はいつもこう、なんていうか、こんな感じなんだ。うまく言えんけど。    私は思わずため息をついてしまう。これは己の人生への嘆きのため息であったのだが、それを聞いた野口さんが慌てて口を開いた。    「ああ、ええと………すみませんなんか……」    私は慌てて否定する。    「あ、いえそうじゃなくて!!…………なんか私ダメだなって、色々と」    「はぁ…………」    二度目の沈黙。ええいもういいわ。このまま黙って家まで運ばれよう。お互いその方がよろしいでしょ野口さん。ね?そうしましょう。私は目を瞑るよもう。    「実は僕……タクシーの運転手始めたの今年からでして………去年までサラリーマンやってたんですよ」     喋んのかい。すごいな全然心通じないな私たち。    「へぇ…………」    とりあえず相槌を打ち返す私。    「前の仕事が飽きてしまいましてね。思い切って自分の憧れだった仕事に転職してみたんですよ」    「えっ、タクシードライバーに?」    あっ、やべ。これ失礼だな。    「えぇ、変わってるでしょ。でも、なんかタクシードライバーってファンタジーじゃないですか」    「ファンタジー……?」    「そうです。地味な仕事なんですけど、不思議と昔から小説やドラマの題材になってることが多いんですよ。例えばそうだな……タクシー乗ったら過去にタイムスリップしたりだとか、不思議な場所に連れていかれたりだとか」    言われてみればなるほどわからんでもないかもしれない。人生に疲れた冴えない大人がちょっと変わったタクシーに乗ってどうのなどと都合の良い展開はSF導入としては定番だ。    「僕ね、昔からその手の作品が好きでよく観てたんですよ」    「あー……確か洋画でもありましたよね。ちょっと違いますけどタクシードライバーの話。ロバート・デニーロの………」    「……ごめんなさいちょっとそれは知らないですが」    知らんのかい。知っとかんかい。    「まあそんなわけで憧れのタクシードライバーになったわけですが………」    「…………どうでしたか?転職してみて」    「何にも変わんないですね。結局、僕自身が何も変わらない凡人なんですから職業を変えたところで何も変わらない。日常は変わらず淡々と続いていくだけです」    「なるほど…………」    そりゃあそうだろう。推定年齢50は超えてると思われる野口顔の野口がタクシーの運転手になったところで世界は何も変わらないだろ。変わってたまるか。    「でも……この日常に少しでも味がつけばと思って、勇気を出してお客様に話しかけてみたりはするんですが。まあ見ての通り口下手なもので、いつもお客様と上手く会話も弾ませられず……」    「な……なんかごめんなさい」    「あっ、いえそんなお客様の謝ることじゃないです!こちらこそすいません!!」    野口のおじさまはなんとなし私と似ているかもしれない。思いながら私はまた視線を窓に向ける。雨は相変わらずひどくこの大都会を叩いている。    この野口は凡百な生活を営む凡百な人間でしかないのに、いつか己にも映画の大主人公ようなクライマックスが訪れるのではないかと夜な夜な少女の如き夢想に耽り、気まぐれに平凡道の外に足を踏み出してやみるもそこに待つのはまた別の平凡な人間だらけの道でしかなかった。と言うところだろう。まるで別の惑星から来たが如き年下男に誘われ真面目道から一本逸れてみるも結局ただヒモに寄生されているだけのどこにでもいる哀れな28歳オフィスレディーのようだ。私は鼻で笑う。誰を笑ったのだろう。  「なんか、わかるかもしれません。私も似たような人間なので。何やってもつまんないし、平凡だし、うまくいかないし、でもその毎日から抜け出せなくて」思わず口をつぐ。  「はは……」    野口さんがため息のように笑う。ここで上手い返しができないところが彼らしい。私もそうだからわかる。    三度目の沈黙が訪れる。しかし今回は不思議と息の詰まらない時間が流れていく。今この一時の間のみの妙な連帯感。凡々仲間の安心感が私の心を安らがせる。    タクシーはオフィス街を抜けやや入り組んだ道に入る。そして止まる。信号は赤。外はなおも雨。窓の外に懐かしく趣味の悪い建物。あぁ此処はあれだ。ホテルだ。隼人と行った初めてのホテルだ。私の人生初のホテルだ。初めてのデートからあいつが私の部屋に転がり込んでくるまで二人してせっせと参ったホテルだ。参った。気持ちが悪い。見栄のために友人に借りた左ハンドルで私をこの猥なる建物に連れ込んだ隼人が、まんまと騙されてお目目キラキラで彼の横顔を眺めたあの頃の私が、ただただ気持ち悪い。せっかく今しがた安らいだと言うのにこんなゲテモノが目の前にあるのは勘弁願う。誰も歩いていない横断歩道の歩行者信号の青を呪う。    ダメだこりゃ目の毒だ。こんなもんより名刺に映る野口の間抜け顔でも眺めていた方がよほど目に優しい。    そう思い顔を正面に向けようとしたその瞬間だった。ホテルの屋内駐車場より、その出口に垂れ下がるびらびらを暖簾のごとく持ち上げ一台の車が這い出てきた。一台の、左ハンドルが。もう何年と見ていない奴の親友とやらの所持するイタリア製が。あろうことか、あいつを、隼人を乗せて。その隣には当然に女を一匹座らせて。  雨が邪魔だ。私は窓に両掌を吸い付かせくわと目を開きその光景を無心で観察する。瞼の裏面にまで焼き付ける。その車はこのタクシーのいる目の前の道路に顔だけ出して、割り込みのタイミングを伺いながら停車している。間違いなく隼人だ。だって私が去年の誕生日にくれてやった腕時計が見えるもの。そして隣のお前は誰だよ。よく見えない。雨が邪魔だ。わからない。だが二人の声は聞こえる「いやん、もう、こんなタイミングで信号待ちで止まっちゃうなんて恥ずかしいよう」「いいじゃんいいじゃん。俺たちカップルなんだから堂々としてようぜ」「もー、はーくんたらーぷんぷん」そのような声が聞こえる。鼓膜でなく脳味噌に聞こえる。内臓ごと吐いてしまいそうだ。ありがたいことにあちらさんからはこの雨で私の顔は見えていないようだ。雨様々だ。  「お客さん……?どうかしました?」    私の尋常でない様子に野口が声をかける。誠に申し訳がないがちょっとそれどころではない。だってそこに隼人が。隼人が!  ちょうどその時、こちらの信号が青へと変化する。運転マナーの大変よろしい野口は発進させずに、道路脇から顔を出す隼人の乗るその車をタクシーの前に割り込ませてやる。隼人は心優しいタクシーにハザードの一つも炊くこともなく制限速度を遥かにオーバーして快速で遠のいていく。私は思わず運転席の方に身を乗り出した。  「え!?お客さん!?」    驚いた野口が動揺の言葉を発する。  私の脳内はすっからかんであった。何も思っちゃあいなかった。ただ、ただ、目の前の県道の上で小さくなっていく隼人の車を見つめた。いや、睨みつけた。そして、左手人差し指前方へ思いきり突き出し叫んだ。    「あの車!運転手さん!!あの目の前の車追ってください!!!!!」    アホの野口はぽかんとした。しかしそのぽかん顔の脳内は高速で回転し一瞬でこの私の全ての事情を察した。わけでは多分ないが、今、己の身に確実に人生一度の機会が降ってきていることは理解できたようだった。顔つきが変わった。一瞬だけ息をのみ素早くサイドブレーキを落とす。そして渾身の声で彼は言った。  「しっかり捕まっててくださいよ!お客さん!!」    タクシーが聞いたこともないような低音で唸る。スピードメーターはものすごい勢いで針を上げていく。あれほどに小さくなっていた隼人の乗る車がみるみる大きくなっていく。私は高揚していた。あのクズが他の女と寝ていた事実への悲しみもほどほどに今この唐突に降って湧いたドラマチックにスリリンスに展開していく己の人生のクライマックスに。野口もきっと同じだろう何せ私たちは同じ平凡村の生まれ。こんな機会二度もない。そう、私とおじさんの映画は今この瞬間幕を開けたのだ。  そして二分後。耳を貫くサイレンとともに私たちの映画は終わりを迎えた。          
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