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窓から見える景色は、相変わらずのどんよりとした雨模様である。
「ここに入っているやつで最後だから」
食卓に置かれている、梅干しで満たされた小瓶を指して、夫が言った。
「もうこれで終わりなの?なくなったら困る」
物心ついた頃から、それは食卓にあり続けた。
「母さん自家製の梅干しに、すっかり慣れてしまったからな」
「今さら市販のやつなんか、食べれないよ」
夫が梅干しを箸で掴むと、それをパクっと口へ放り込み、じっくりと味わった。
「原材料は梅と塩だけなんだけどな。そのあとに食べるお米一粒一粒がなんとも甘く、そして旨味を感じさせるのはどうしてだろう」
「ふふ。なにその安っぽいグルメリポートは。今となっては貴重な梅干しなんだから、そうパクパク食べないでよ」
「そう言われても、ついつい箸が止まらなくてね」
今日の朝食は定番献立のご飯、味噌汁、焼鮭、納豆、そしてわが家自家製の梅干し。
「そういえば、毎年この時期になると仕込み作業をしてたっけ」
2人は仏壇の方に顔を向けた。線香の煙が、ゆらゆらと立ち上っているのが見える。
「急すぎたからね、母さん…」
一時無言となる、わが家の食卓。
聞こてくるのは、早朝から降り続く雨音だけ。
梅雨入りした6月は、梅干し作りの季節でもあった。
次の日曜日、夫はスーパーに出回り始めていた梅の実を、一袋1キロ分購入してきた。
今のご時世、気軽に家庭で梅干し作りを!、といった謳い文句のウェブサイトが多く見られ、ネット上では密かなブームとなっているらしい。
思いもよらずあとわずかとなってしまった、わが家の自家製梅干し。
その残り火を消してはならぬの腹づもりか、梅干し作りに関する情報をコツコツと収集していたようである。
「初めてだからな。まずは少量でチャレンジしてみるよ」
梅の実を袋から取り出し数えてみると、27個あった。
大きさはピンポン玉よりやや小さめ、表面はほんのり黄色く彩られており、一部赤く染まっている箇所が実に艶やかである。
「うわ、すごくいい香りがする」
「こんな甘い匂いがするんだな。知らなかったよ」
梅独特の甘い香りに包まれて、自然と顔がほころぶ顔を見るにつけ、こちらもつられて嬉しい気分になる。
「少々値段は張るが完熟梅を選んできた」
「どうして?」
「半端に未成熟なものを選ぶと、何日か置いて追熟しないとダメらしい。そのタイミングを間違うと梅を傷めてしまうらしいんだ」
「へえ」
「そうとは知らずそれを使うとな」
「使うと?」
「梅の実にカビが出ちゃうらしい」
「ひっ」
「そして、カビを出したその年は不吉なことが起こるらしい」
「え〜、ちょっとこれは責任重大だよ、わが家の今年の命運は、父さんにかかっていると?」
ふふ、軽くプレッシャーかけてます。
「だからこそ1キロ分でお試しチャレンジさ。初心者の心構えで慎重にやるから」
夫は迷信を、まに受けるタイプだった。
「母さん秘伝のレシピとかあるの?」
「ないんだよな、それが。あればどれだけ心強かったことか。とりあえずネットの知識だけで頑張るしかない」
「そんなんで大丈夫かなあ?先月作った、コンクリートより硬いクッキーの悪夢が、まだ記憶に新しいというのに…」
「あれは…食べ応えがあってよかっただろう」
夫は独身時代が長かったこともあり、家事全般はそつなくこなすことが出来た。
定番料理などはお手のもの、であったのだが。
「プリンを作ったつもりが、甘い茶碗蒸しになってしまった悲劇をお忘れでしょうか?」
「むむ」
突如思い立ったり気まぐれで作るスイーツや初挑戦ものは、いろいろと残念な結果が多いのである。
「ああっ、そういえば。わたくしやることがありまして。うちの未来は父さんに託すことにします。頼みましたよ!」
「手伝ってくれんのかい…」
触らぬ夫に祟りなし、これ正解。
わたしは陰ながら、応援させて頂きます。
下準備。
食卓を片付けて作業場とする。
ネットで知り得た溢れるほどの情報は、夫なりに最善の方法にまとめ、そのメモを横に見ながら行う構えである。
まずは梅の実をチェック。一つひとつ丁寧に、変色やキズがないかを確認。
次、大鍋に蛇口を捻って水を注ぎ、梅の実をそっと入れ込む。
それらをやさしく丁寧に洗い流し、窪んだところに付いているちっちゃなヘタを、爪楊枝の先っちょで、ひょいと取ってはザルに置き水を切る。
なかには取りづらいものもあり、傷つけたらどうしようと四苦八苦しつつ、どうにか27個全て完了。
ザルに置いた梅の実は、キッチンペーパーで水分をしっかり拭き取った。
ここまで順調、なによりです。
塩漬け。
乾いた梅の実全て、Lサイズのジッパー付きポリ袋へ静かに投入。
総量1キロ分に対し20%の塩200gを入れた。
塩の割合はカビ防止のため、多めに設定したようだ。
念には念を入れ、アルコール消毒の意味合いで、これまたカビ防止に有効な、ホワイトリカーを1/2カップ投入。
塩を、梅の実全体に馴染むように混ぜ合わせたら、平らにならし袋の中の空気を抜く。
ストローを使って空気を吸い込み、真空パックのような状態にするのだそう。
真空状態によって浸透圧効果が生まれ、塩を梅の実全体に、満遍なく染み渡らせることが出来るらしい。
なおかつカビ発生の防止にもつながるという、一石二鳥の方法であった。
なるほど、こんな方法があるとは。
昔ながらの、樽で仕込むやり方とは一線を画すわね。
だが、これがどうにも上手くいかないようだ。吸い込む力が足らないのか、どうしても空気が残ってしまう。
果ては袋の中の塩を吸い込んでしまい、激しく咳き込み七転八倒。
これは辛そう…。
頑張れ夫よ、君なら乗り越えられるさ。
わたしゃ心から、応援することしか出来ませんのよ。
夫による、吸って吐いての悪戦苦闘が黙々と続く。
わが家の未来と発展を心から願い、見守るしかない。
今日も降り止まぬ、雨音をバックに黙々と作業する夫。
やがて、願いが通じたかはさておいて、試行錯誤を繰り返した結果、ついに光明を見い出したようだ。
一気に吸い込もうとせず、ひと吸い毎に小休止、同時にストローを指で押さえることで空気の再侵入を防ぐ。
それを辛抱強く繰り返すことで、徐々に空気が抜かれていき、まあまあ形になったと納得した模様。
安堵の表情を浮かべる夫を見て、ほっと一息。
よく見る真空パックのようにぴっちりとはいかなかったが、この辺で妥協したようだ。
続けて、梅の実が無事収まったポリ袋を、使わなくなった空の段ボールの中に、そっと置いた。
その上へ重石の代わりである、梅の実と同量1キロの雑誌を載せる。
こうして数日間は、梅酢の上がり具合と残った空気を抜く作業に費やす。
梅の実から滲み出る梅酢でポリ袋が満たされれば、ひとまず塩漬けの工程は終了。
あとは土用干しまでじっと待機。
7月に入り晴れ間が続く日を見計らって、家のベランダで3日間ほど天日干しするのだ。
それにしても。
確かにこの方法ならば、簡単に出来そうだと誰もが思うはずだわ。
どれもこれも初体験、量もお試しで少なかったとはいえ、何とかここまで進んだしね。
あと片付けをする夫の後ろ姿は、なんだか頼もしく見えた。
土用干し。
7月下旬、季節はすっかり真夏の様相。
強い日差しが、食卓を大いに照らす。
夫がここぞと決めた、その日がやってきた。
「あら、始めるの」
「おう」
保管していた段ボールから、梅の実が塩漬けされているポリ袋をゆっくりと取り出す。
「ついにこの日が来てしまったか」
「そんな大げさな」
「うれしいような、さみしいような」
わたしだけは知っている。
夫が夜な夜な段ボールの中をのぞき、愛おしそうに梅の実を眺めていたのを。
「梅一つひとつに、名前つけてたりして」
「はっ、そうすればよかった」
「それはやめて〜」
ポリ袋に閉じ込められているはずなのに、なお周囲に漂わせる梅の香り。
夫は名残惜しそうに鼻を近づけ、甘い匂いを嗅ぐ。
「ここまで手塩にかけて育ててきたからな。梅干しだけに」
「はいはい」
「かわいいわが子が家を出る時も、こういう心境になるのかなぁ」
「妄想が、過ぎるようで」
ポリ袋を開封すれば、なお一層甘い香りが立ち上った。
そして一つずつ梅の実を取り出して、毎年使っていた土用干し用のザルに、間隔を空けて並べていく。
今回のお試し27個分では、大きなザルに不釣り合いで、中心部に偏ってしまった。
「母さんはこのザルに目一杯敷き詰めて、毎年干してたんだよなあ」
「ザルってもう一つなかったっけ?」
「そう。そのことから推測すると、毎年10キロ以上は作ってたんじゃないかな」
「毎年毎年、私たちのためにね…」
作る者と食す者、それぞれの思い。
いつまでも、作り続けると思っていたのに…。
一方、ザルの上でぷっくりと佇んでいる、愛らしい梅の実たち。
彼らは果たして、何を思っているのやら。
作り手である夫は、静かにザルを手に持つと、ベランダの日当たりの良い場所にそっと置いた。
梅の実は、太陽光による殺菌効果で保存力がアップし、水分が飛びことで旨味が凝縮していく。
あとは日が落ちる前に家に取り込んで、この作業を大体3日繰り返す。
干し具合の柔めか堅めかはお好みで、これは作り手の楽しみでもある。
こうして土用干し3日後、お日様の恵みを存分に浴びた梅の実たちは、晴れて梅干しへと生まれ変わった。
わが家の愛情もたっぷり浴びて。
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