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私は雨の日が好き。通りを行く人はみんな傘を差しているから。
雨の日に希望を持って空を見上げる人なんていない。誰もがささやかな傘の下、黙って目を伏せて歩いて行く。
そんな日にだけ私は窓から少しだけ顔を出す。この屋根裏の小さな窓からほんの少しだけ。それが、私が唯一外の世界を感じられる時間だった。
私はこの屋根裏で生まれた。そして一度も外に出たことはない。生まれてからの10年間、ずっとこの場所で家族と静かに、息をひそめて生きてきた。週に一度食べ物を持ってきてくれるのはカリスさん。私のために沢山の本を持ってきてくれるのもカリスさん。私が家族以外で唯一関わりのある痩せた丸メガネの優しいおじさん。
私たちは決してこの家から出てはいけない。この家にいることは誰にも知られてはいけない。両親からはそう教えられた。理由は教えてもらえなかった。私にとっての外の世界は全て本の中と雨の日の窓の向こうの景色だけだった。
雨の日のたびに通りを見下ろしていると、傘達と顔馴染みになった気になる。いつも朝の早い時間にツカツカと足音を鳴らしながらせっかちに駅の方へと向かう灰色の傘。いつもこの窓の真下で立ち止まって、クルクルと回りながら待っている赤い傘。少し遅れてやってきて、待たせていた赤い傘と並んで歩いていく黒い傘。この小さな窓から見えるそんな雨の日だけの友人達。通りの向こうへと小さくなっていく彼らを見送るのが好きだった。
だけど嫌いな傘だってある。
ヘンテコなマークをつけたあの傘は悪い人たちの印だから、見つけたらすぐに隠れなければならない。もし彼らに見つかったら私たち家族は全員バラバラにされてどこか遠いところへと送られて一生会えなくなると言われた。
ある朝のこと。その日も空は分厚い雲に覆われ、この街に絶えない雨音を響かせていた。そんな中、私は通りに見慣れない傘を見つけた。いつも見る傘達より少し小さく、ネイビーの生地を纏ったそれは、通りの向かいで誰かを待っているように静かに佇んでいた。私は何故だか目を離すことができずに数分、その様子を見つめ続けていた。
その時、フッとこちらを見上げた彼と目が合った。私は驚いて窓から顔を離したが、その勢いで座っていた椅子ごと後ろへとひっくり返ってしまった。
初めてだった。
雨の空を見上げる人を見たのは。
痛みの残る頭と鼓動の鳴る胸を抑え、私は再び窓へと忍び寄った。
ここにいることは誰にも知られてはいけない。家族がバラバラにされてしまう。刷り込まれてきた言葉達が次々と頭をよぎる。いけない。いけない。と頭が警告をしているのに心は窓の外の世界へと吸い寄せられていく。
少しだけ、ほんの少しだけ。窓から顔を出して外を覗く。彼はいた。相変わらずじっとこちらを見上げて。私はまたギクリとしたが今度は隠れなかった。ただ、遠く、空の下にいる彼を見つめ続けた。
歳はきっと同じくらいだろうか。晴れた日には子供達の声が外から聞こえることはよくあったが、そんな日は絶対に窓に近づかないようにしていた。だから、自分と同じくらいの歳の男の子を現実に見るのは生まれて初めてだった。
彼はなおも静かにこちらを見上げている。とは言っても雨で視界は悪くこの窓も曇っている。地上にいる彼から屋根裏の私は見えているのだろうか。
幾千の雨が私達の間を遮る。それでも彼と私は見つめ合っていた。数分、いや数十秒かもしれない。だけど、私が今まで経験したことのない不思議な時間が雨の音とともにそこに流れていた。
しかし、あの忌々しいマークをつけた傘が通りを歩いてくるのが見えたことで私は我に帰った。慌てて窓から離れ、息を潜めた。そうだ、あいつらにだけは絶対に見つかってはいけない。
さっきとは明らかに違う、痛みにも似た心音が体を駆ける。
どうして、私達だけが、こんな場所で。
ずっと上手に仕舞い込んでいたはずの言葉が、なぜかこの日に限って心を渦巻いていく。部屋にうずくまってギュッとくちびるを噛み締める。それでも涙は堰を切って溢れてしまった。せめて声だけは漏らさないようにと両手で口を塞ぐ。声が、心が、溢れてしまわないように強く。ただ必死に。
しばらく経って、私は泣き疲れた体をゆっくりと立ち上がらせて再び窓の外を覗く。
そこにはもうあのマークの傘も、そして彼の傘もなかった。
そこにはただ雨の音だけがまるで何もなかったかのように響き、この悲しい世界を彩っていた。
その日から私には家族にも言えない秘密ができた。
雨の日に、いつもの傘達を見送ってしばらく待っているとネイビーの彼は必ずそこに現れた。いつも同じ場所、同じ時間にそこに立つ彼。私たちはただ見つめ合った。距離は遠く。瞳の色すら見えないほど。それでも私たちは来る日も来る日も、暗い空の下で遠く触れ合った。
私は泣くことが多くなった。
この屋根裏で生まれ過ごしてきた10年間。なんの疑問も持たないフリをして過ごしてきた10年間がいつの間にか心に蓄積されていた。彼は水で一杯になっていた心に一筋の穴を開けた。ほんの少しの揺れで心から水が溢れるようになってしまった。
両親は夜中によく囁くように話し合っている。カリスさんが訪ねてくるのが二週に一度になった。私と、家族と、この世界と、何かが少しずつ歪み、変化していることを幼い心が感じとる。
それから一月も経たないある酷い雨の日のこと。
ほんの三日前に来たばかりのカリスさんが青い顔で息を切らし駆け込んできた。
両親とカリスさんが恐ろしい声色で言葉を打ち合う。私は怖くなって自分の部屋に隠れた。扉の向こうから僅かに漏れてくる言葉達。
『近くの家に密告があった』『ここも時間の問題』『早い方がいい』
母の啜り泣くような声が聞こえる。私は耳を塞いだ。それでも隙間を縫うように入り込んでくる感情に心を大きく揺すられまた瞳から涙が溢れていく。それでも声を出してはいけない。私達は声を上げて泣くことも許されない。大好きな雨の日なのに外を見る勇気がなくて、床に座り込んで窓を見上げる。ガラスを伝う雨に光が折れて外の景色を歪め狂わせていた。
そして私達はこの家を出ることになった。
決行は次の雨の日の夜。母が言うには『雨の音は私たちの足音を消してくれるから』だそうだ。
次の雨が降ればここでの生活が終わる。その先の私たちを待っているのはどんな世界か、私にはわからない。ただ一つわかるのは彼と会えるのもその日が最後だということ。
彼を想うこの感情がなんなのかわからないほど子供ではない。生まれた時から私のそばにいた沢山の本達が、その物語の主役達が教えてくれた恋という感情。狭く埃の舞う屋根裏でほとんど奇跡のように生まれたこの恋は次の雨で流れ足音と共に消えていく。
その三日後の朝。私が目を覚ますとこの街に最後の雨の音が響いていた。
かつてあれほど望んでいた雨の音が今は胸を締め付けるほど苦しく響く。
これが恋をするということだと私に痛いほどに教えてくれる。
私は窓に顔を貼り付ける。この街での最後の景色を少しでも鮮明に刻み込もうとする。並んで歩く赤と黒の二つの傘が見える。いつも通り寄り添って遠くに消えていく彼らを見て嬉しくて苦しくなる。あんな当たり前を私は。
彼が来た。
いつも通りのネイビーの傘が通りの向こうに見える。彼は、今までと変わらずこの暗い空を見上げるようにしてこちらを見ている。私は彼を見つめることしかできない。これが最後なのに。それなのに遠い彼を見つめているだけ。その瞳の色も髪の色もぼやけてしか見えない。きっともうすぐあの忌々しいマークをつけた傘が通る。それで終わり。それだけ。ただそれだけで私の初めての恋は消えてしまう。
私は唇を噛み涙を堪えた。ここから出ることが決まったあの日、もう泣かないと決めたから。涙は私達を生かしてはくれない。ただ強くありたい。自分が強くあることだけが雨の止まないこの世界で私たちが生きていくための道標だ。
でも……と、幼い10歳の少女としての私が囁く。でも、ひとつだけ、たったひとつだけ願いがある。初めて恋をした相手の声を聞きたい、その手に、その心に触れたい。それすらも許されないというのならせめて、せめてこの想いだけは伝えたい。そんな淡い願い。
彼に会いたい。こんな果てしないほどに分厚いガラスと千の雨で隔てられた世界でなく、同じ世界で彼と会いたい。想いは渦となり私の心をかき回す。彼に会いたい。伝えたい。屋根裏に生まれた人生。これが私の運命だというのなら、私はこの一度、ただこの一度だけ運命に逆らって見せる。私は、私自身の想いのために戦う。本の中に生きる彼女達が教えてくれた強さ。耐える強さではなく運命に抗う強さ。
私は窓から離れて本棚へと駆け出した。無数にひしめき合う本達の中から目当ての一冊を引っこ抜く。何度も何度も読み返し汚れてしまっている大切な本。その本のあるページを私は躊躇いなく破り取る。
それは文字ではなく挿絵のページだった。主人公の女の子がバルコニーから愛する人へ想いを伝える大好きなシーン。決して許されない愛でもその運命と戦うために強く叫ぶ彼女を描いた一枚の絵。この絵だけでいい。言葉はいらない。ただこの絵を一枚彼に見てもらえばそれで、それだけで私はこの恋の幕を引くことができる。他の何者でもなく自分の意思で。
私はその破り取ったページで紙飛行機を折り、窓を開ける。斜線の雨が容赦なく私を刺す。まるで私を彼から遠ざけるように。それでも負けない。もう負けない。私は右手に持った紙飛行機を通りの向こうに佇む彼へと飛ばした。
この世界に酷く降り続ける雨が飛行機を濡らす。
この世界に強く吹き続ける風が飛行機を揺らす。
それでも飛行機は弱々しくも前へ、彼の方へと、飛んでいく。
飛行機が地に堕ちるその前に私は窓から離れた。
あの飛行機は私の想い。そして、私たちの未来だ。きっと見てはいけない。どんな未来でも覗いてはいけない。
私の初恋は終わった。
いつもは限りないほどの静寂の中にあるこの屋根裏が、この晩は少しだけ慌ただしかった。
両親は最小限の荷物をまとめ終わったようだ。私も数冊の本だけをカバンに詰めた。
最後まで手伝ってくれたカリスさんとハグをする。この私に本を通して外の世界をたくさん見せてくれたカリスさん。大好きだけど、離れたくなんてないけど、でもきっと私達がこの人とこれ以上関わるときっと不幸にしてしまうのだろう。私たちは10年分のお礼とキスをしてこの恩人に別れを告げた。
静まり返る屋根裏部屋。私が10年生きた家。今ここにいるのは私たち家族3人だけ。外に降る強い雨音だけがこの部屋にこだましている。
外につながるドアのノブに手をかけた父が一度手を離して後ろにいる母と私を抱きしめた。私たちは三人で小さく泣いた。その手に持てる小さな荷物だけを抱えてこの10年間の思い出と、この先に待つ未来への不安で泣いた。父は何度も『大丈夫。大丈夫』と私の頭を撫でて囁いてくれた。
思い出の最後に彼の姿が過ぎる。私の初恋の彼。この瞬間にドアが開いて王子様となった彼が私達を助けに来てくれる。そんな夢物語はきっと起こり得ない。でも私はこの恋の最後に、運命に、抗うことが出来た。もうこの街に思い残すことはなにもない。
雨の音は足音をかき消してくれる。
だから私達はこの雨の夜にここを離れ逃げる。
いつか世界に光が差すその日まで、雨の音に隠れて生きていく。
だけど、その時の私達は気づいていなかった。
階段を上がり屋根裏へと近付いてくる誰かの足音も、この雨の音にかき消されていたことを。
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