フル・アウト・ぺトリコール

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 少し前、彼女に何故雨がいいのかと訊いたことがある。近所の、よく行く老夫婦の経営している小さなカフェでのことだった。  彼女は小さな手で乳白色のティーカップを包み込みながら、僅かに首を傾げた。肩口で切りそろえた内巻きのボブが、さらりと零れる。その細い線が暖かな色の照明の光を受け止め、淡い茶色に輝いた。 「音……音がいいんだよ。落ち着くんだ。それに、厚い雨雲に覆われた世界って、なんだか新鮮じゃない? 小さいころから雨なんて何度も何度も経験しているはずなのに、それでも雨が降る度にやっぱり新鮮に感じるの。非日常感って言えばいいのかな? 窓ガラスとか、ビニール傘とかにぶつかって死んでいく雨粒たちも、全部同じようでさ、やっぱり一つ一つ違うんだよ。大きさも、純度も、勢いも、ぶつかるときの角度も、場所もね。そう考えると不思議だよね。不思議で、面白い」  彼女は柔らかい笑みを浮かべ、ティーカップの中のミルクティーを呑んだ。その中には四つもの角砂糖が投下されている。甘いものが苦手な僕にとっては、劇薬に等しい液体だった。  僕は質問を重ねる。何故僕のことが好きなのかと。 「……なんでだろうね。もちろん、顔が好みだとか、話が合うだとか、そういうのも要因としてはあるんだけどさ、そういうのじゃ、納得しないんだよね?」  頷く。彼女は困ったように微笑む。 「うーん……多分だけどさ、君は雨に似ているんだよ。しっとりしてて、落ち着くんだ。静かで、でも時々激しくて、わたしの心をダムみたいに満たしてくれる。君の横にいると、雨のように守られているような気がするんだよ」  彼女は雨上がりの、あのカラッとした晴天模様のような暖かな、そして清々しい笑みを浮かべながらそう言った。空に浮かぶ真っ白の雲が、彼女の手元のティーカップの中に残ったミルクティーに写りこんでいる。ゆっくりと滑っていく大きな雲。そよ風が吹いている。肌を僅かに温める陽光。行きかう人々の発する音。僕らを包む世界は今日も平和で、ゆったりとしていて、不幸なんてこの世にないなんて顔をしている。  彼女はそんな世界の片隅で、甘ったるいミルクティーに口をつけた。
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