フル・アウト・ぺトリコール

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 一年前か、それかもうひとつ前の彼女の誕生日。その時彼女は珍しく普段は飲まないアルコールを飲んで、ささやかにふわふわと酔っていた。形のいい小さなそのほっぺたを淡い桃色に染め、普段より瞼を落とした目で彼女はチューハイの缶の成分表を見るでもなく眺めながら、ぽつぽつと語りだした。  それは、彼女が雨を好きになった理由だった。 「わたしのお父さんは、すぐに頭に血が昇る人だった。すぐに大きな声を出して、わたしやお母さんを怒鳴りつけるの。学校とか、近所の人とか、家庭外の人にばれるのを恐れてか、滅多に手は出さなかったけどね。でも、その分大きな声で、思いつく限りの悪意や怒りをわたしやお母さんにぶつけてくるの」  彼女がチューハイの残りを飲み干し、缶を潰して立ち上がり、冷蔵庫から新しい缶を取り出してプルタブを起こした。カシュッと言う音と共に霧雨のような細かい飛沫が辺りに飛び散った。彼女はまるで熱いものでも飲むかのように一口啜り、話を続けた。 「それは、お父さんが仕事から帰ってきて、お酒を飲む夜によく起こるの。アルコールが入ると、感情をコントロールできなくなるんだろうね。お父さんの会社は夜遅くまでやっていて、帰ってくるのも深夜のことだったから、わたしは寝るために部屋に引き上げていて、わたし自身が怒鳴られることはそんなに多くはなかったけれど、でもお母さんはお父さんの相手をしなくちゃならなかったから、ほとんど毎日、あの大声に耐えなくちゃならなかったんだ」  ふと、どこか遠いところから野良犬の遠吠えが聞こえてきた。何かを憂いているような、あるいは何かに憤っているような、そんな力強く野太い声だった。僕はハイボールで唇を潤し、彼女の目を見た。とろんとしていて、熱を帯びた大きく黒い瞳。それを守るようにある長い睫毛がふるふると震えている。 「お父さんの声は、大きくて、そのうえ良く通る声だったから、もちろん同じ家の中にいるわたしの許まで届いてきたの。その声を聴くと、動悸が激しくなって、頭の中がぐわんぐわんして、胃袋がひっくり返りそうになったんだ。いつも、お父さんが酔いつぶれて寝てしまうまで、わたしは布団の中で蹲って、耳を塞いで耐えていた。でもね」  彼女が僅かに口角を持ち上げる。 「でも、たまにお父さんの声を気にせず、ぐっすり眠れる時があったの。それが、雨が降っているときだった。わたしの家は構造上なのか知らないけど、何故か雨の音が良く響いたんだ。家を打つ雨粒の音が、お父さんの声を小さくしてくれたんだ。小雨より大雨、大雨より嵐のような台風。激しい雨であればあるほど、わたしはよく眠ることができた。窓ガラスが割れるほどの暴風雨でも、世界が弾けるような雷雨でも、お父さんの声よりはマシだったんだ」  彼女はうっとりとそう語り、再びチューハイの缶を握り潰してテーブルに頬杖をついた。上目使いで僕を見る彼女の表情が、年端もいかない子供みたいで、かと思えばねっとりとした婦人のようでもあり、どうしようもなく艶めかしかった。 「そんなある日ね……中二の終わり頃だったかな? お父さんがいきなり死んだんだ。交通事故だった。雨のせいでタイヤがスリップして、電信柱に衝突したの。即死だって。……その時思ったんだ。雨はわたしを守ってくれているんだって。わたしに降り注ぐ不幸を洗い流してくれているんだって」  酔いによって濡れた彼女の瞳が、蛍光灯の光を反射させ、一瞬だけ真っ赤に光ったように見えた。不確かに揺れる、雨の日の赤信号のようだと思った。  彼女が言う。 「だから、わたしは雨が好き」
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