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突然降り始めた通り雨は、僕の汗ばんでいたTシャツを余計に濡らした。
僕は小走りで屋根の付いた建物に避難する。
既に濡れ鼠になった自分の姿を見ると、このまま濡れながら家に帰った方が良いのではないかと思ってしまう。
「天気予報、ちゃんと見ておけば良かったな……」
雨はざぁざぁと真夏の歩道を水打ちしている。
しかし、外の気温は一向に下がらずに、じわっとした生ぬるさが残っている。
太陽が雲に隠れ、辺りが薄暗くなったとしても、夏の存在感はちゃんと肌身にまとわりついてくる。
それくらい、今年の夏は猛暑だった。
これほどの暑さなら、下手に風邪を引かなくて済みそうだな。と僕はどんよりとした空の一点を見つめながら心の中で思っていると、同じくこの雨から避難してきたであろう先客の女性が、「また、逢いましたね」と僕の背後から柔らかい声を立てた。
それが僕に向けられたものだと気付いたのは、この屋根の下に“僕”と“その人”しか居なかったからで、恐らくもう一人見知らぬ誰かが居合わせていたら、この声は僕には無関係な声だと思い込んでいただろう。
僕は周りを見回した後、少し不審に思いつつも、声を掛けてくれた人を無下にできない気持ちから、「すみません。人違いとかじゃないですか?」と彼女に尋ねてみた。
すると彼女はふふっと笑いながら、「ごめんなさい。全身びしょ濡れの人に、どう声を掛けてあげれば良いか分からなくて」と冗談めかして言った。
僕は今の自分のびしょ濡れな姿を思い出して、少しだけ恥ずかしくなった。
「はい。これ、良かったら使ってください」
彼女は、僕に向けて、黄色い花柄のハンカチを差し出してきた。
僕は思い掛けない彼女の行動に、「いやいや、全然、大丈夫ですよ」と動揺しながらやんわりと断ってしまう。
人付き合いが少し苦手な僕の、悪い癖だ。
けれど彼女は微笑んで、「新しいハンカチなので、大丈夫ですよ。貰ってください。貴方、大丈夫じゃないくらいびしょ濡れだから」と、僕の手元にハンカチを寄せた。
そのハンカチから、手元、腕、肩を通って、僕の視線がもう一度彼女の顔を捉えると、彼女は目を細めながら、「どうぞ」とにっこり笑い返してくれた。
僕の心の中で、ピチャンと水滴が飛び跳ねるような音がした。
「すみません。じゃあ、お言葉に甘えて」
僕は彼女からハンカチを受け取り、顔に付いた水滴を拭き取ると、新品の混じり気ない布の匂いと、仄かに甘ったるげな香りがふわりと漂った。
髪の毛に付いた水も軽く取り払った僕は、「新品のハンカチは、いつも持ち歩いているんですか?」と彼女に聞いてみる。
「貴方のような、困っている人がいたら渡すようにしているんです。その為に、いつも新品のハンカチは持ち歩くようにしているんです」と彼女は応えた。
「私も前に、こうやって人に助けて貰ったことがあるんです。そこで、人の温かさに触れて。それから私は、私なりにできることをしようって決めたんです」と彼女は言う。
「凄いですね。本当、尊敬します」
「褒められたことじゃないです。やろうと思えば、誰だってできることですよ」
彼女は彼女自身の行いを謙遜しているけれど、僕は本当に心の底からそう思った。
他人を思う気持ちが無ければ、新品のハンカチを持ち歩くことなんて無いし、そもそも新品のハンカチで人を助けようという考えにも至らない。
けれど彼女は、それをいとも簡単にやってのけ、現に僕のように困った人を助けたのだ。
僕も彼女の生き方を見習わなければと、僕自身の今までの考え方を少し自省した。
「この恩は、いつかお返しさせてください」と僕がお願いすると、「それじゃあ次は、知らない誰かにその恩をあげてください。そうやって人の温かさは、次の人、また次の人へ繋いでいくことができるんです」と彼女は少し照れたような表情を浮かべて言った。
彼女の温かさを知ってしまった僕は、まさしく彼女の言いつけ通り、これから人に対して思いやりの気持ちを持って生きていくことにした。
そんな僕の晴れやかな決意とは裏腹に、次第に雨は勢いを増して強まっていくのが分かった。
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