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国によって雨の色が違うとは知らなかった。
小さな出窓から、夜明けのような薄紫に烟る街並みを眺める。
それに気づいたのはいつだったか、大雨が降ったあとの街を駅に向かって歩いていたとき。道に打ち捨てられたビニール傘に、香水のような色のついた水が溜まっていて、誰かかジュースでも捨てたのか、何かゴミの色が雨水に染み出したのか、その時は特に気にしなかった。
しかし、用事を済ませた帰り道に寄った八百屋のおかみさんが「最近また雨の色が濃くなってきたねえ。また野菜の値があがっちまうよ」と釣り銭を渡しながらぼやいたのだ。
「雨の色?」
「そう。うちの小さい娘はキレイだって喜んでるけど、こっちは商売に響くからね」
どういうことかわけがわからず、詳しく聞こうとしたが後ろに列ができ始めていたので礼を言ってすぐに譲った。
雨の色とはどういうことか。
おかみさんが、新参者らしいわたしをからかって冗談を言ったのか。いや、あの話し方は、当然のことを世間話程度にこぼした様子で、こちらの反応を伺う素振りもなかった。
誰かに聞いてみようにも、この国の人々にとって至極当たり前であろうことを改めて聞くのは気が引けた。例えるならそれは「石は食べられるのか」「空はさわれないのか」というような、突拍子もないことを真剣に尋ねるようで、やっと話せるようになった幼児ならまだしも、30歳を目前にしたわたしにはそんなことを聞く勇気はなかった。
誰にも聞けないのであれば自分の目で確かめよう。次に雨が降ったときにはベランダにコップでも出しておいて、雨水を溜めて見てみることにした。
機会が訪れたのはそれから4日後の夜。窓を叩く雨音に気づき、慌ててキッチンからコップを取り出しベランダに置いた。もうそろそろ溜まった頃かとコップを回収し、明るい部屋で真っ白なノートの上にコップを置くと、透きとおった淡い藤色が紙に写しだされた。
たしかにこれは、綺麗だ。
八百屋の娘さんが喜ぶのも分かるが、この国の人たちにとっては不思議でもなんでもないんだろう。鼻を近づけて匂いを嗅いでみてもまったくの無臭。少し迷って、一口含んでみるも、雨特有の生臭さ以外は何も感じられなかった。大規模な工場などもないし、おかみさんの口ぶりだと野菜など植物の成長に何か影響があるのみで、人体に有害な化学物質が溶け込んでいるわけでもないようだ。
もし害があるなら、こんなに綺麗なはずがない。
わたしが生まれ育った故郷では、特に気にしたことはなかったが雨に色なんてついてなかったはずだ。窓ガラスに打ちつける水滴。歩道の水たまり。どの記憶を思い出しても雨水は当たり前に透明だった。この国には2週間ほど前に移り住んできたばかりだが、まさか雨の色が違うだなんて思いもよらなかった。
それから何日かは、雨が降るたびに窓に近寄り、藤色の水滴を確かめてしばらく眺めたりもしたが、2週間も経つと当たり前の景色として気に留めなくなった。
それでもたまに、こうして一色に染まる街の景色を眺めたくなる。どんよりと重く、どこか閉鎖的な故郷の雨模様と違って、降れば降るほどこの街が美しく塗り変えられていく気がする。すべてが良い方に向かっていくような、そんな予感がむくむくと湧いてくる。
この国で生まれ育った人にとっては、この景色も憂鬱なのだろうか。わたしの故郷の透明な雨粒を見て、さっぱりした気持ちになったりするのだろうか。
わたしがここに逃げてきた理由だって、この国の人々にとっては理解しがたいかもしれない。
さらさらと耳を撫でる雨音を聴きながら、そんなことがどうしようもなく嬉しかった。
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