記憶の片隅にある雨雲

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「この前ママとぉスタバいってきてぇ」 「えー、この歳になってもお母さんと一緒に行ったの?」 「違うってぇ。お母さんが勝手に付いてきたんだってぇ」 ────── お母さん、か。 普段からこんな会話耳に入ってきてるはずに、今日は何故か敏感だった。 お母さんは今から十三年前、家を出ていった。 それも確か今日のみたいなどんよりとした湿気の多い雨の日だった。 四歳の記憶なんてこれっぽっち覚えてないのに、本当にそれだけは鮮明に思い出せてしまう。写真に残っている幼稚園の頃の遠足の記憶なんて全くないのに。 多分こうして度々思い返すから、またそれを記憶に残してしまうっていうサイクルだと思うけれども。 『出ていくのか?!』 『もうあなたといるのは耐えられないの』 『俺はいつもお前のために仕事をして、お前のために家を守ってきた。お前はいつも家事をするだけで―』 『なんでもかんでも私に押し付けてこないでっ! あなたのそういう傲慢なところが耐えられないんでしょ?!』 2人の叫ぶ声に起きた。 エアコンはついてるはずなのにむさくるしくて、寝起きで頭はぼんやりしていたが、子供ながらになんとなく分かっていた。お母さんとお父さんは仲悪くなってるんだと。 詳しいことは分からないけれど、一人っ子のせいか普段から親の近くにいすぎて状況を悟ってしまう癖があった。 お母さんはこの家からいなくなる。だってほら、一緒に掛けて寝てたタオルケットが綺麗に畳まれてるもん。 私がお母さんを止めないと。 そう思って寝室のドアに手をかけようとしたらお父さんの声が聞こえてきた。『あの子は俺の子だ、置いていけ』 『あんたなんかに育てれる分けないでしょ?!子育てってどれほど大変なのかあなたには到底分からないわ!!!』 『でも片親にさせようとしたお前こそどうなんだ! 女の手一つでどう守ってやるんだ?! 女のお前の給料で幸せになんかしてやれん』 『女の、女の、ってうるさい!! あの子を置いてけばいいんでしょ!! もう行くわ!!』 手にかけたまんまの状態で、ドアの目の前で立ち尽くしていた。 目の前のドアが開いた。お母さんだった。 『志音、起きてたの?』 先程の声が想像つかないくらい優しい声で私の名前を呼んだ。お母さんの後ろにはキャリーバックが置いてあるのか見えた。それに目線が向かないように黙って頷いた。 『ずっと、起きてたの?』 どうしていいのか分からず何も言わず俯いた。 それを見たお母さんは諦めたように、悲しそうに笑って頭を撫でてきた。 『……ごめんね』 少し間があいて、次はぎゅっと抱きしめられながらこう言われた。『…………お家出るね。ごめんね。……ごめんね』 『お母さん』 『ちゃんとご飯食べて、勉強して、好きなこと我慢しないで、元気に明るく遊ぶのよ』 『うん、分かった』 『いい子ね……。この部屋ジメジメしてて暑いね。お母さん汗出てきちゃったみたい』 お母さんの顔に一粒の滴が伝う。それは額からではなく瞳から滴だった。 『いつ帰ってくるの?』 『………雨が終わるまで、かな。……またね』 今なら分かる。それは優しい優しい嘘だ。逆をいえば、幼い子相手だからこそできた言い逃れ。 でもその時は根拠ないその言葉だけを信じてた。きっと、じめじめしたこの季節が終われば帰ってくる、と信じていた。 まあそれは幼少時代の思い込みだっただけで、実際にはそんなことなかった。 お母さんがどこに行ったのかとか誰といるかとか、情報が全くなかった。会うことも縁のないことで、帰ってくるなんてことさら、ありえない話だ。 別に寂しくない。 私の家は祖母がその代わりになってくれるし、父親だって私を大事にしてくれてるのは十分伝わるし。だからなんにも不足なんてしてない。みんなと一緒だ。
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