一章

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一章

 雨なんて嫌いだった。雨なんて、なんのメリットもない。なんだかアスファルトと混ざると臭いし、電車は混むし、外に出ると傘を差さないといけないし、傘は邪魔だし、注意をそらすとすぐに置き忘れてしまうから、ある程度気にかけておかないといけないし。あれ? 私は雨が嫌いなのではなく、傘が嫌いなのか? いや、違う。傘は嫌いじゃないし、雨も今は嫌いじゃない。そう、嫌い「だった」んだ。  ポツリポツリと雨音が聞こえた気がした。私は、いつものように静かにカーテンを「ほぼ」全開にする。そしてその「ほぼ」を司るわずかにまだカーテンが閉められた場所に小さく身を隠し、こっそり目だけをカーテンの袖から出すイメージで向かいのマンションのベランダを盗み見る。息を潜める必要などまったくないのだが、ばっちりと気配を消す。カチカチとテレビの上のボロボロのデジタル時計が音を鳴らしている気がする。しかし、実際に鳴っているのだとしても聞こえるわけがない。気のせいだ。外の雨音は少し増してきている気がした。  すると、向かいのベランダのカーテンが開き、薄手のワンピースを着た女性が露わになった。ワンピースの色は紫と白の間のような色だったが、薄紫ともまた違う気がした。この色を表現する手段を、現状私は持っていない。女性は前髪を簡単なヘアピンで留めているようで、真っ白なおでこも露わになっていた。それは薄手のワンピースと少しミスマッチな気がして、なのになぜか私の気持ちは高ぶっていた。  肩と腕がむき出しの彼女がベランダに出てくる。洗濯物を取り入れているようだ。量はそんなに多くなく、一度彼女が部屋に戻るともう出てくる気配はなかった。  いつもの風景。雨が降り出すと、いつも彼女はあのような無防備な格好で洗濯物を取り入れる。彼女も、まさか思うまい。向かいのマンションの一室で、カーテンの袖から彼女を盗み見ている男がいるなんて。  いつから、これが雨の日の日課になったのだろう。いつから、雨音を楽しみに待つようになったのだろう。  彼女の名前は何ていうのだろう。私は「綾島」という名字が頭の中に浮かんでいたが、それは中学時代に好きだった綾野さんと、高校時代に好きだった島内さんを合わせた名前だったことに最近気付いた。ちなみに、私は二人ともに告白もできず恋に破れた。破れたといっても、振られたわけでもない。勝手に振られるに違いないと断定しただけだ。思えば、それは遥か昔のことに思える。  綾島さんは今何歳くらいなんだろう。自分と同い年くらいに見えるが、社会人三年目くらいだろうか。彼氏はいないのだろうか。雨が降るときに限っていれば、いる様子はない。リビングとは違う別の部屋にいるのなら話は変わってくるが。好きな食べ物は何なのだろう。あんまりガッツリとしたものは食べなさそうだ、細いし。高タンパク質のヨーグルトをケース買いして冷蔵庫に常に用意してそうな雰囲気だ。昼間はベーグルとか食べて、夜は本場っぽいカレー食べてそうだな。木の皿に花を盛ってある感じの。  彼女はどんな男がタイプなんだろう。飲み会とかで聞いたら何て答えるだろう。得意げに「優しい人」とか言うのだろうか。そのあと、各人が思う優しい人の定義について三十分くらい語っちゃうのだろうか。で、最終的にやっぱり男は最低限の金持ってないと話にならないとか言うのかな。私は、金はないけど、君の冷蔵庫のヨーグルトがなくなりかけたら、すぐに補充してあげるくらいの気遣いはできるけど、それは優しい人の定義からは外れてるのかな。早く補充しすぎても期限が気になるし、遅すぎても不安になるだろうから、絶妙の塩梅で補充すると思うんだけど。そういうのは、違うのかな。違うんだろうな。  ふと、憂鬱な気分になる。  私は窓を開けてベランダに出た。雨が降り出すと、いつもこれくらいのタイミングで私は洗濯物を取り入れる。これくらいだと、もう彼女がベランダに出てくることはないので、つまり彼女と鉢合わせる心配もない。一度目でも合ってしまうと、次からこっそり盗み見ることに罪悪感が出てしまうかもしれない。だから、私は自分の洗濯物が少し濡れてしまったとしても、色々なメリット・デメリットを考慮した結果、このタイミングで洗濯物を取り入れているのだ。向こうを見ると、カーテンが閉まっている。残念なような、安心するような変な感情を、あの黄色ともベージュとも言えない変な色のカーテンは与えてくれる。  取り入れが終わるとカーテンを閉める。今思えば、私のカーテンを開けるタイミングと洗濯物を取り入れるタイミングにタイムラグがあることの違和感を彼女は感じていないだろうか。というか、冷静に考えたらおかしいよね。雨が降り出したら、カーテンだけ開けて部屋に誰もいないってこと。でも、その不自然さに気付いた時点で、私のことを気にかけてくれてるってことだから、こっちの勝ちか。いや違う、勝ちじゃない、キモがられるだけだ。もしかしたら、カーテンの袖からこっそり見てることに彼女は気付いてるかもしれない。でも、そうだとしたら、わかっていてあんな露出度の高い服装を着ているということか? 脈ありなのではないか? どうだろう。ポジティブすぎるだろうか。私は基本はネガティブなのだが、変なところでポジティブスイッチが入るときがある。それにしても腹が減った。  のそりのそりと歩き冷蔵庫を開ける。中にはハムが一枚と賞味期限が昨日で切れた卵のみ。ヨーグルトすらない。卵とハムでスクランブルエッグを作ってもいいのだが、そういう気分でもない。よし、コンビニで弁当でも買おう。もう一度、カーテンを少し開けて今度は堂々と外を覗き見る。よし、まだ雨脚は強くなっていない。  ジャージを脱ぎ、Tシャツの上からパーカーを羽織って、手ぶらでコンビニへ向かう。唯一あったビニール傘はどこかへ置いたきりで、なくなっていた。外へ出ると、パーカーのフードをかぶるかどうか悩むくらいの雨脚だったが、結局かぶることにした。こんな私でも一応風邪は引きたくない。風邪を引くかもしれないことと、不審者に見られそうな見た目を天秤にかけた結果、私は健康な不審者を選んだ。  いつものコンビニに着くと、勢いよくフードを脱いで、お誂え向きに濡れた靴を入口付近でトントンとし、靴底の水気を切ってから店内へ。いつもの退屈そうな丸眼鏡の女子大生と、オーナーっぽい細身で薄毛の男性がレジにいた。あの女子大生は、きっと同世代の女子か男子と一緒に和気あいあいと働けると思ってここを志望したクチなんだろうと思う。蓋を開ければ、コンビニ業に疲れた哀愁漂うおじさんオーナーと夕勤に入るばかりだなんて思わなかったのだろう。  私は彼らから逃げるように雑誌コーナーの前を通り、遠回りして弁当売場に向かった。ロコモコ弁当と、大盛り明太子パスタで迷った結果ロコモコ弁当にした。「雨のハワイ」というノスタルジーさを、自分の部屋で再現できると思ったからかもしれない。ただ部屋の窓からはヤシの木もビーチも見えない。見えるのは、自分のマンションのよりも少し瀟洒に見えるマンションの壁と、変な色のカーテンだけだ。  買い物を終え、さぁ家に帰ろうとしたところで嫌な音が聞こえた。  ザーザーザー。  最悪だ。一旦、コンビニの軒下で様子を伺う。流石に、フードをかぶったとしても、ずぶ濡れは避けられそうにないほどの土砂降りだ。隣のサラリーマンも、しかめっ面で鞄を宙に掲げて「これで帰るか」というシュミレーションをしているように見える。どうしよう、私は手ぶらだ。そして、この一瞬のために、すぐになくなってしまうビニール傘を買うほど財布の中は重くない。  そのとき、店内から派手なパーカーを着た女性が出てきた。驚いたことに、向かいのマンションの女性だった。綾島さんだった。そして、目が合ってしまった。
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