二章

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二章

 雨なんて嫌いだった。雨なんて、なんのメリットもない。メイクは崩れるし、髪はうねるし、足元は滑るし、アスファルトと混じると変な臭いするし。だいたい、アスファルトって気に食わないのよね。変な黒さだし、硬いし、転けたら痛いし。あれ? 私、雨が嫌いなのじゃなくて、アスファルトが嫌いなの? いや、違う。アスファルトは嫌いじゃないし、というか興味ないし、雨も今は嫌いじゃない。そう、嫌い「だった」んだ。  ポツリポツリと雨音が聞こえた気がした。カーテンの隙間から外を覗く。向かいの部屋のベランダから男が素早くカーテンを開けて姿を消した。カーテンだけ開けてどこに行ってしまったんだろう。だが、いつものことだ。  私は、ジャージからベランダ用の薄手のワンピースに着替える。顔には美白用化粧水を塗り、前髪はピンで留めた。演出だ。もし、私が洗濯物を取り入れているときに、向かいの彼がベランダに出てきたら、ジャージよりはこっちのほうが絶対にいいはずだ。だが、私が取り入れている最中に彼が出てきたことは、今まで一度もない。私が作業を終え、部屋に戻ってからちらりとカーテンの隙間から覗き込むと、洗濯物を取り入れている。いつもだ。  雨が少し勢いを増した気がする。やはり、彼が出てくる様子はない。彼のことも気になるが洗濯物も大事なので、私はさっさとベランダに出て取り入れ作業をする。一応ほぼ毎日しているので一回の量は少ない。彼に見られたときのために、私は一人暮らしですよということと、マメな女ですよというアピールを同時にしているのだ。意味のない努力だとは思うが。  取り入れ作業が終え部屋に戻ると、即座にまたジャージに着替えて、ラベンダーグレイのワンピースは洗濯機に放り込む。占いアプリで恋愛運が上がると言われたライトマスタードのカーテンを閉めてホッと息をつく。今日も私と同じタイミングで彼がベランダに出てくることはなかった。残念だけど安心。だが、ここからが本番だ。両側のカーテンの間にわずかばかりの隙間をつくり、そこに目を当てて覗き込む。まるで獲物を狙うホワイトタイガーのようだ。実際には狙うだけで、飛び出すことはないのだが。  すると、すぐに獲物、いや、彼がベランダに出てきた。今日も学生時代のダサいジャージを着て、ズレた眼鏡をかけ、つむじの周りは寝癖だらけだ。全部が、私の芽吹き始めた母性本能をくすぐる。そして、気だるそうに頭を掻きながら洗濯物を取り入れて戻っていった。  彼は自分の瞳の綺麗さに気付いていない。眼鏡のレンズの奥にある大きくて眩い瞳。彼は磨けば絶対に光る素材なのだ。だが、それに本人は気付いていない。きっと毎日色々なことに卑下して生きているんだろう。そんな表情をしている。それがいい。飲み会とか、合コンに行っても隅っこの席で退屈そうにウーロンハイでも飲んでいるのだろう。だが、それがいい。眩しいのは瞳くらいでいいのだ。今の私にとって、太陽のようにずっと照りつける男はどこか退屈でしんどい。だから、このポツリポツリと音を鳴らす小雨の音が、心地よくなってきたのかもしれない。そして、同時に向かいの彼のことも。  名前は何というのだろうか。ジャージに名前の刺繍が彫ってあったが、目を凝らしても二文字めが「上」ということしか分からない。一文字目は画数が多くて判別不可能だ。だから私は勝手に一文字目を「槇」という漢字にして「槇上」君と、彼を呼んでいる。その名前の由来が、私が学生時代に好きだったがアプローチもできなかった「槇原」君と「上沢」君からきていることに気付いたのは最近のことだ。  槇原君は明るくてクラスのムードメーカー的な存在だった。話のネタも豊富で一緒にいると退屈しなさそうだった。身長も顔も成績も普通かそれ以下だったが、彼は常にモテていた。彼の周りには男女かかわらず人がいた。だから、あまりこちらから話しかけにいくのが億劫だった。  上沢君はどちらかといえば寡黙だったが、ここぞというときには頼りになる雰囲気が好きだった。詩織ちゃんが貧血で倒れたときには、率先して詩織ちゃんを担いで保健室まで運んでいったし、文化祭のときには鉄板で焼きそばをつくりながら、周りの男子に作業の指示を出していた。詩織ちゃんを担いだときに膨れ上がった中学生と思えない筋肉、焼きそばをつくっているときにめくれ上がった袖口から見えた高校生とは思えない筋肉、その印象が女子に強かったのか、男子に頼りがいを求めるタイプの女子から上沢君は人気だった。でも、私はその中に名乗りを上げることができなかった。「結局、筋肉目当てかよ」と揶揄されるのが嫌だったのかもしれない。今、思えば槇原君も上沢君も全身から眩い光を放つ太陽のような人だった。月日が経てば、好みも大きく変わるものだ。今の私は、焼きそばをつくる上沢くんの横で、何をしたらいいのか分からず玉ねぎを持ったままモジモジしてるような男子に惹かれると思う。  ふと、またカーテンの隙間から外を見た。地上を一人の男性がパーカーのフードを被って歩いていた。あれは……槇上君だ。槇上くんではないと思うが、槇上君だ。どこへ行くのだろうか?  そう思ったのもつかの間、私はクローゼットの中に一着だけあるパーカーを取り出した。ビビットカラーのピンクと紫の間みたいな色をしていて、なぜこんな派手なパーカーを当時買ったのかわからない。結局、こんなものは美容と自信のパラメータが最大値まで上がった人にしか着こなせない代物と割り切ってずっと閉まっていた。私はまたジャージを脱ぎ捨て、そのパーカーを着、いつも履いているベージュのショートパンツを履いて、鏡も見ずに傘も持たずに外へ駆け出した。  この程度の雨ならフードをかぶれば問題ない。そんなことよりも、これは槇上君に直に会えるまたとないチャンスかもしれないと胸が踊る。傘も持っていなかったし、きっと、そんなに遠くには行かないはずだ。必死に追いかけながら、期待と不安に胸をつまらせていると、予想は的中した。槇上君は近くのコンビニに入っていった。私もよく利用する青い看板のコンビニだ。  どうしよう? 私も入ってみようか。でも、不審に思われないだろうか。いや、思うわけがない。私があのマンションから出てきたことは見てないはずだし、そもそも、私の顔を知っているはずがない。いつも、一方的に私がこっそり見ているだけなのだから。  私は、店にそろりと入った。自動ドアにうっすらと派手な色のパーカーが映る。一瞬正気に戻りかけたが、すぐさま目をそらして彼を探す。  槇上君は弁当コーナーにいた。スイーツコーナーを見るふりをして、近付いてみる。なにやら、二つの弁当を持って、真剣な面持ちでそれらを見比べている。どっちを買うか悩んでいるのだろうか。最初、これ以上近づくと、顔を見られるかもしれないと思ったが、あの様子じゃ私の気配にも気付かないだろう。安心して、さらに真後ろまで近付いてみる。  うわっ、どうしよう。私、槇上君の真後ろにいる! 彼、思ってたより身長高いかも。意外とガッチリしてるし。あと、後ろ髪の生え際、こういう先がニョキッとなってるタイプだったのね。可愛い。それにしても、真後ろにいる私の気配に気付きもしないなんて、何をそんなに真剣に見てるのかしら。  私はこっそり覗き込んだ。  え? ロコモコ弁当と大盛り明太子パスタ? 全然バラバラの二つじゃない。あっ、明太子パスタを棚に戻した。ロコモコ弁当にするのね。  私はレジに向かう彼の後ろ姿を見送った。なぜ、ロコモコ弁当にしたんだろう。こんな、雨の日に。まぁ、別に雨の日に食べてもいいのだが、どうしてもロコモコは晴れの日に食べるイメージがある。もしかして、逆張り野郎なのか? でも、そうだとしたら、可愛い。なんか、頑張って個性出そうとしてるのが愛くるしい。  あっ、会計が終わったみたい。やばい、先に帰っちゃう。どうしよう? これで追いかけたら、本当に不審者よね。どうしよう、彼の指紋のついた大盛り明太子パスタでも食べようかしら? 迷っていると、突然雨音が聞こえた気がした。  ザーザーザー。  最悪。あれ、かなりの大粒で強い雨じゃない?   私は急いで出口に向かった。自動ドアを飛び出して軒先に出ると、そこにはあ然として立ち尽くしていた槇上君がいた。私は反射的に目を留めてしまった。すると、槇上君が視線に気付いてこっちを見た。目が合ってしまった。ヤバ、どうしよう。
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