お肉とごはんと甘い予感

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お肉とごはんと甘い予感

 ぱち、ぱちぱちぱち。 「うわあ、もう雨降ってきたよ」 「えっ、天気予報だと午後からのはずなのに?」  午前。雨の音が聞こえると、少しだけうれしい気分になる。  行きつけのカフェの、雨の日限定メニューが食べられるから。 「――いかわさん、宵川さん!」 「はいっ、すみません集中してました!」  おおっといかんいかん、此処は会社、今は勤務時間。ぱっと回転椅子を回して振り返れば、いつもきりっとしている先輩の申し訳なさそうな顔。 「止めちゃってごめんね、だけどこの案件の資料のまとめお願いできる?!」 「えっ、この案件ですか。いつまでですか?」 「急で悪いんだけれど、できれば今日中にまとめてくれると……!」 「……わかりました。最善を尽くします」  だからといって、目の前に積み重なる仕事が減ることはなく、現にむしろ増えた。この案件は私担当ではあるが、いきなり今日中って大変困るぞ先輩。でも、こんな沢山の仕事をこなしきれることができるかと不安であった数分前とは違い、今ならどうにかやり切れそうな気がする。  そのくらい美味しいのだ、グッド・ラック・カフェの限定メニューは!  湯気が立つ、つやっつやの白米は炊き立て。それぞれの季節の旬の野菜を取り入れた味噌汁。そしてメインのお肉料理は絶品の一言に尽き――ああ、思い出しただけで涎が出てきてしまった。ダメだダメだ、煩悩振り払うべし。  なおメインのお肉料理は月替わり。最近雨が降っていなかったから、月半ばといえど今月は初めての限定メニューだ。先月の牛肉を使ったステーキもとても美味しかったし、今月のメインディッシュもとても楽しみだ。  美味しいお昼ご飯のことを思えば、積算する仕事もなんのその! 「では昼休憩行ってきます!」  ばさん、と開く雨傘。ポツポツ、シトシト。降りしきる雨音を聞きながら、石畳を歩いていく。  なんだかんだ、お昼ご飯が楽しみだパワーで先輩からお願いを迅速に片付け、それに他の仕事もあらかた予定通りに進めることができた。やはり美味しいごはんの力は偉大だ。そして頭脳労働によって、私のおなかもいい具合にペコペコである。と考えているうちに、会社から徒歩五分。グッド・ラック・カフェへと着いた。  傘を閉じ、カランコロンとドアベルを鳴らす。 「いらっしゃいませ」  店主の穏やかな挨拶。ぺこっと会釈で返しつつ、傘立てに傘を入れる。  グット・ラック・カフェは、落ち着いた空気の手狭な隠れ家カフェというのが一番しっくりくるフレーズだ。会社から近いということは駅からも近いのだけれど、わたしのようなオフィスワーカーのお客さんは少ないらしい。今日も店内には私一人。ジャズミュージックが楽し気に流れるだけだ。  多くの常連さんがいるみたいだが年齢層もまちまち。にもかかわらず、店主は私と同じくらい? か少し年上? よくわからないが若くこざっぱりとした好感の持てるお兄さんである。何者なのかもっぱらの謎だ。  荷物を椅子下の籠に置いてテーブル席に座ると、カウンターから出てきた店主さんがお冷を出してくれる。 「来ると思っていました、宵川さん」 「……どうも、お邪魔しています」  そして私も、立派な常連の一人となりつつある。お店の人に顔どころか名前まで覚えられるという滅多にない経験に、いつもどう対応していいのかわからず困るのだけれど。 「はい。今日も雨の日限定メニューで良いですか?」 「はい、よろしくお願いします!」  ご飯が美味しいので、通うのがやめられない。完全に胃袋を掴まれている。 「かしこまりました。ではおつくりしますね」  にこっと笑う店主さん。愛想がよく、かといって踏み込まず。距離感のつかみ方が本当に上手だなあ。  まあだからといって何か有るわけではない。あるのは美味しいご飯だけ。 「お待たせしました。今月の雨の日限定、塩麴漬けローストポークです」 「!! ……お」  ――美味しそう。間違えた。 「……あ、有難うございます」 「いえいえ。ごゆっくりどうぞ」  ふふっと微笑まれたような気がしたけれど、気のせいだろう。たぶん。  炊き立ての真っ白なごはん。味噌汁はこれからの旬野菜の茄子を取り入れ、そして焼き加減もばっちりな――ローストポーク!!  思わずすぐに箸をつけそうになった、危ない危ない。その前にすべきは合掌。 「いただきます」  よし、それではいざ尋常に。最初は味噌汁からズズっと。 「ん……!!」  美味しい。合わせ味噌の絶妙な味付けは勿論のこと、茄子含め具沢山で飲みごたえ? 食べ応え? もバッチリ。どんな具が入っても美味しいのは、それに合わせて少しずつ出汁とか味噌の配合とかを変えているんだろうなあと思うと尊敬である。  次にごはん。ぱくっとほおって咀嚼すれば、白米ならではの甘さが口の中に広がる。以前尋ねたら奇しくも同じ銘柄のお米を使っているとのことだが、これも本当にどうやって炊いているのか。  そしてローストポーク。タレなどは付いていないけれど、ここままパクッといけばいいのかな。 「ああ、ローストポークは塩味が付いているのでそのままどうぞ」 「えっ、……あっ、はい!」  店主さんがカウンター向こうから響く、穏やかな声。タイミングがばっちりだったところを考えると、じっと見られていたっぽい。他にお客さんいないから仕方のない部分もあるけれど、少し気恥しさもある。  けど、ローストポークを一枚、口に運べば。 「~~~っ!!」  そんなの吹っ飛んだ。  いや、なにこれ美味しい。めちゃくちゃ美味しい。いい塩梅の塩味とポークの肉汁のジューシーさ。咀嚼すれば甘みも生まれてきて、美味しい以外のなにものでもない! 「美味しいですか?」  ぶんぶん首肯する。 「それは良かった。何よりです」  店主の御業がこれほどのものとは。いやはや、どんなメニューも旨いだなんて、料理スキルがあったならカンストしていそう。  付け合わせの漬物もベリーデリシャス。なんというか、お手製でしょうか。ローストポークはサラダと一緒に食べてもよし、ご飯と食べてもよし。  ご飯と味噌汁の相性も良く、箸も止まることなし。 「ごちそうさまでした……!」  これぞ至福のひとときでした。米粒一つも残さずいただきました。  普段の夕暮れカフェメニューもとても美味しいけれど、雨の日限定のランチはやはり別格。会社員になって働いている今が一番、雨の日を楽しんでいる気がする。 「お粗末様でした」  いつのまにやらカウンターから出てきた店主さんがさりげなく傍に立っていた。普段はカウンターの中からお返事がくるのだけれど。 「よければこちらのデザートをどうぞ」 「……え、いいんですか?」 「はい。宵川さんはいつも美味しそうに食べてくださるので、そのお礼みたいなものです」  下げられるお皿の代わりに置かれたのは、ミニサイズの丸いベイクドチーズタルト。行きつけのケーキ屋さんのショーケースに飾ってあっても違和感のないクオリティだ。つまりめっちゃ美味しそう。 「どうぞ、召し上がれ」  店主さんからそう言われては、断る方がなんだか失礼な気がした。  ので。 「――いただきます!」  食べますとも!  フォークを使ってさくさくと切り分け、内ひとかけをパクリ。  さっくりとしたタルト生地に、ベイクドチーズのふわっとした舌触り。違う触感が楽しめながらも、それぞれの味が調和した逸品。 「……おいひい」  四つに分けたタルトは三分と経たずして胃の中へ。デザートは文字通りに別腹ということで、ぺろりといただいてしまった。 「大変美味しかったです……」 「それは良かったです」  カウンターへと戻った店主さん。その後ろの時計を見ればもういい時間。そろそろ帰らねばなるまい。 「いえ、デザートまでいただいてしまってすみません。お代はいくらでしょうか?」  さっと立ち上がり、足元から荷物を取り出す。カウンター横のレジへと足を進めれば、店主さんも寄ってきた。 「お会計は千二百円です」 「……ってそれはいつもと同じじゃないですか!」 「いいんですよ、あれは試作品ですから」 「でもそれじゃ店主さんに悪いですって!」  そう言うと、む、と店主さんは押し黙る。お財布を片手に睨みあいとは、これは一度はやってみたかった”釣りはいらねぇぜ”をすべきか? 「……それじゃあ、お願い事を聞いてもらってもいいですか?」  笑みを浮かべた店主さんに、目を瞬かせる。なんだろうか。 「お願い事ですか? 変な内容じゃなければ、いいですけれど……」 「じゃあ二つ。一つ目は、またご飯を食べに来てくださいということ」 「勿論です。店主さんのご飯美味しいので、必ず来ますよ」 「有難うございます。二つ目は、呼び方を変えてもらっても?」  呼び方。呼び方? 「……へ?」 「前にも名乗りましたが、俺は浅見です」 「はい、そうですね……?」 「本当は名前で呼んでほしいですけれど、とりあえずは苗字で我慢します」 「つまり、店主さんではなく、浅見さんとお呼びすればよいと?」 「ええ、是非」  またグット・ラック・カフェに来るのは確実だし、苗字で呼ぶだけだなんて簡単なお願いだ。 「わかりました、それなら大丈夫です」 「それはよかった。では――丁度頂きます。こちらがレシートです」 「はい」  きっかり千二百円を払って、レシートを受け取る。が、骨ばった長い指が、なかなかレシートを話してくれない。 「……? 浅見さん?」 「宵川さんがいつも美味しそうに食べているのを、……大変好ましく思っています」  にっこりとした笑みに驚いて、手を引っ込めればレシートは存外簡単に手に入った。 「……そ、うですか。ご馳走さまでした」 「はい」  スーツという戦闘服が為せるビジネススマイルを決めて、さっと身をひるがえす。平常心平常心平常心。傘立てからさっと傘を取って、出入り口の扉に手を掛けた。 「また、来てくださいね」  穏やかな店主さん――否、浅見さんの声を背に、カランコロン。戸が閉まり、降りしきる雨に急いで傘を開く。  お願い事を安易に承諾してしまった、数分前の自分を殴りたい。試作品をくれた理由、苗字をよく呼ばれる理由。たくさんヒントはあったはずなのに、どうして見逃してしまっていた?  たぶん逃げ出すにはもう遅くて、逃げる理由を今日失ってしまった。  ああ、次の雨の日はいつになるかな。  うれしいような気恥ずかしいような気分を抱えて、また私は雨の音を待つのだろう。
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