第2章 家庭の問題

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第2章 家庭の問題

 昭輔と加代の娘美咲は心臓に疾患を抱えていた。海外で生まれたことから乳児期には発覚せず、帰国後小学校へ上がる時の健康診断で心雑音を指摘された。  狭間夫妻は美咲を大学病院へ連れて行き、何度かの検査の結果ASD(心房中隔欠損症)と診断された。  4つに別れた心臓の部屋を隔てる壁に穴が空いているという。夫妻は狼狽えた。だが、担当した心臓外科医は和やかに夫妻に話した。 「ご心配には及びません。検査結果からお嬢さんの欠損は僅かに2ミリほどです。ほとんど影響はないと考えられます」 「ほんとうに?」 「ええ」 「跳んだり跳ねたり、踊ったり。大丈夫なんですか?」  加代は青ざめた顔で心臓外科医に尋ねた。 「問題ないと思います。しかもこの穴は年齢とともに自然に閉じてしまう可能性が高い」 「ほんとうに?」 昭輔は繰り返した。加代の顔に血の気が戻る。 「ただ、希ですが逆も考えられます」  夫妻は再び緊張した。 「気を楽に持って下さい」 心臓外科医は言いながら狭間夫妻の顔を見た。 「欠損が年齢とともに大きくなる場合もあります。まあきわめて希ですが。それにその場合でもカテーテル術で塞いでしまえば・・・問題ありません」 「ほんとうに?」  昭輔は我ながら語彙の少なさに呆れるばかりだったが、惚けた顔で繰り返すしか能がなかった。逆に妻は美咲の将来を心配して震えている。 「子供も産めますか?」 「お母さん、心配し過ぎです。欠損がこの大きさなら心配要りません。ですから慌てて手術などする必要もありません。年一回、検診を受けて下さい。それで欠損が大きくなるようなことが、もしあれば、カテーテルや外科手術で治せます」  心臓外科医の力強い言葉に夫妻は胸をなで下ろした。  それから10年、狭間夫妻の娘美咲は何の問題もなくすくすくと育っていった。  ところが昨年のことだった。定期検診で欠損が拡大していることが判明する。  本来混じり合うはずのない血液が心臓の中で混合されていた。欠損が1センチを超えていたのである。  その前の検診では2ミリで変わらずだったのにだ。だが、美咲にこれと言った自覚症状はなく、心臓外科医は様子を見ることにした。欠損が2センチを超えた場合には手術適応である。 「まだ1センチちょっとです。自覚症状もない。検診の間隔を半年にしますので、様子を見ましょう」 「先生。テニスは続けても大丈夫ですか?」  美咲が恐る恐る心臓外科医に尋ねた。今や美咲も17歳だ。自分の病気についても良く理解していた。 「問題ないと思います」 「よかった・・・」 美咲はほっと胸を撫で下ろした。インターハイが近いのだ、今度こそ出場したい。 「あの、もし手術となったら・・・」  美咲がおずおずと心臓外科医に尋ねる。 「どうしたの? 先生が手術しなくても大丈夫だと・・・」 付き添う加代がそう言い出した美咲に言った。 「そうなんだけど・・・」 美咲が言い淀む。 「何か心配なことでもあるのかな?」 心臓外科医が美咲の目を見る。 「心臓の穴が自然に塞がる可能性はもうないと思うんです」 意を決して美咲が話す。 「確かに。でも絶対じゃない」 「はい。でも確率としては塞がるより、広がる方が高い、そうですよね」  今度は美咲が心臓外科医の目を見据えて言った。 「確率、という言い方をするならね」 心臓外科医はちょっと戯けたように答えた。だが、見据える美咲の目はそれを許していなかった。 「それで———」 心臓外科医が緊張した面持ちで促した。 「大きな傷が残るんですよね、ここに」  美咲が自分の胸部を両手で押さえ、(すが)るような目で答えた。  すると心臓外科医は人差し指で美咲の胸の上の空間をなぞった。 「ここと、ここと、ここ、かな。直径2センチほどの傷が残ります。胸腔鏡を入れるための穴3カ所だ。私は助手任せにはしないよ。きれいに皮膚の内側から縫うから。傷は半年もすればルーペでも使わないと見えなくなる」  心臓外科医の説明を聞いて美咲はさっきまでの緊張を解いた。 「よかった・・・」 それを聞いて母親の加代もほっと胸をなで下ろした。 「でも、どうしてそんなことを?」  心臓外科医が更に美咲に尋ねた。 「最近、心臓がね、ザワザワするんです」 美咲が打ち明けた。 「ザワザワ?」 「いえ、別に痛いとか、脈が飛ぶとか、そう言うんじゃなくて。ザワザワする」 「気のせいよ」 加代が間に入って言った。それで診察は終わった。  加代は会計を待ちながら娘の顔を見る。気付いた美咲が母親に言った。 「あのね、パパが新しい家の話しを始めた頃から、なんだかザワザワするの。ママはそんなことない?」  美咲の弟、つまり狭間夫妻の長男で中学1年の秀一(しゅういち)は自分の部屋に引き籠もっていた。家の中は普通に歩き回っているし、家族とは少しだが会話もする。だが、家から外へは出られなかった。一歩たりとも。  従ってもう3月ほど学校に行っていない。その原因が何なのか分からなかった。昭輔も加代も聞き出すことが出来ていなかったのだ。  学校へも何度か相談に行ったが答えは得られなかった。夫妻は学校でのイジメを疑ったが、学校側は当然否定した。  ところが思わぬ所から情報があり、学校でのある事件が発覚した。3ヶ月ほど前のことである。時期も符合する。  秀一の1年B組で事件は発生した。クラス委員長の三代川沙織を3人の女生徒が取り囲んでいた。  放課後のことである。教室にはこの4人の他、掃除当番だった秀一ともうひとりの女生徒がいた。教師は既にホームルームを終え職員室だ。 「お前、生意気なんだよ」  1人が怒鳴った。すると気丈な三代川沙織はこう言い返した。 「生意気って何よ。同じ年じゃない。そんな言い方ないよね」  三代川沙織もそこそこ気は強い。だが、3人組は増幅する憎悪で沙織の数倍も強力になっていた。 「ふざけるなよ。いつもいつも偉そうに」  実際クラス委員長として沙織はこの3人を見下していたようだ。それが何かの拍子に破裂した。 「いつもいつも偉ぶりやがって」  どちらが先に手を出したのか、それは不明だ。だが、3対1の小競り合いは必然的に徒党を組む方に有利だった。  3人と1人は押したり、髪の毛や制服を掴んでひっぱったり、モール状になって教室内を動き回っていた。 「やめろよー」 「何だこの野郎!」  ところがその時、沙織のスカートがバサリと床に落ちた。悲鳴を上げてしゃがみ込もうとする沙織に3人が飛びかかる。  2人がクラス委員長沙織の腕を掴むと勢いのまま机の上に上げて押さえつけた。両腕を固定され仰向けのまま沙織は足をバタつかせる。 「やめ、やめて。やめて!」 三代川沙織の悲鳴が響いた。 「先生呼んで来る」  秀一と掃除の準備をしていた女生徒がこの様子を見て教室を飛び出していった。ひとり取り残された秀一は角の方で立ち尽くすしかなかった。  大変なことになってしまったことは秀一にも理解出来た。3人の女生徒に取り囲まれている三代川沙織は無事なんだろうか、秀一は早く先生が来ないかと廊下を覗いた。  すると、 「おい、狭間。お前こっち来いよ」 突然名前を呼ばれた秀一はドキリとした。 「ほら、早くこっちへ来いよ」 3人組の1人が秀一を呼んでいる。もう一度廊下を見るが人の気配はない。 「狭間、来いよ」  秀一はふらふらと事件現場へ近付いていった。あまりにきつく鋭い言い方に緊張の頂点にあった秀一は抗えなかったのだ。 「見ろよ」  女生徒が嫌な顔をして秀一の視界を空けた。 「よく見てみ」 言われて秀一が見たものは三代川沙織の裸の下半身だった。 「だめ—、見ちゃだめ。見ないで—」 泣き叫ぶ沙織の言葉も虚しく大人になりかけの沙織の陰部は秀一の目の前にあった。 「まったく、完全な貰い事故でしょ」  美咲が頭を抱える両親に言った。 「それで秀一が引き籠もりに・・・」 昭輔は絶句だ。  この事件を掴んできたのは美咲だった。秀一と掃除当番だった女生徒が美咲の友人の妹だったのだ。  その女生徒はようやく教師を連れて教室に戻ってくる。だがその時には全てが終わっていた。秀一が1人教室に取り残されていた。  秀一はこの顛末を詳細には話さなかった。話せなかったのだ。だいたい三代川沙織と3人にどういう経緯があったのか知る由もない。  その後三代川沙織は急に家の都合と言うことで転校していった。学校としては事件などなかったと結論付ける。だが、生徒の間では秀一が沙織委員長のマンコを見たと噂が広がった。  以来秀一は学校にも行かず、家から出なくなった。クラスの生徒とも連絡を取っている様子はない。引き籠もってしまったのだ。 「そりゃあ、その女の子にしてみればショックな事件だろうけど、どうして秀一まで」 母の加代である。 「とにかく、このことを学校に言って・・・」  父昭輔が言い出したのを美咲が(さえぎ)った。 「言ってどうなんの。誰も事実を知らない。知ってるのは当事者だけ。被害者は転校しちゃった。加害者が口を(つぐ)めばそれまででしょ。学校は何もなかったって結論出してるんだし」 「そりゃそうだが、秀一は・・・」 「この件蒸し返したって、秀ちゃんの引き籠もりは治らない。だって、問題がどこにあるのか分からないんだから。秀ちゃんもさ、いいもん見せて貰ってラッキーくらいに考えればいいのに」  美咲はそう言ってそっぽを向く。 「そんなこと思えませんよ。秀ちゃんは優しいから」 「優し過ぎるのもどうかと思うよ。だって、全部その時にぶちまけてたらこうはならなかったでしょ」 また美咲が口を出した。  その頃秀一は自分の部屋で自慰に耽っていた。
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