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長い髪を二つに分けて結い上げた彼女は、ふわっとした明るい色のワンピースを着ていたのを覚えている。白熱灯は顔の色をひきたてていた。目をまん丸にし、厚ぼったい唇から発する声は格別だった。敦子と名乗っていたがたぶん本名ではない。
伯父のボトルのウイスキーをいただいた。氷がグラスにあたる音の響きが心地よかった。
銀座7丁目のその店は、カウンターとその後ろに二人掛けのテーブルが3つあるだけ。ママは別な客の相手をしていた。
その客が帰るとママはコックのいる厨房へ移動し、しばらく敦子と私のふたりだけになった。口明け前から雨模様で客足は鈍いようだった。
「私を買わない」
カウンター越しに彼女は小声で言った。
驚いて言葉を探す私を嗤ったその瞳の奥にある哀しみに、私は気がつかなかった。
「嘘、冗談よ」
そのとき成人したばかりの僕は銀座のバーに行ける身分ではなかったが、実業家の伯父が人生勉強として招待してくれた。以来、ときどき立ち寄り何でもない話をして帰る。
初めてあったのに敦子と話がはずみ、好きな食べ物や休みの日の過ごし方なども一致することが多く感じるものがあった。だけど僕はいろいろな意味で無理だった。ちょっとした好奇心でも勇気でもあったなら。
仕事が上がるのを待って彼女と行動をともにしたら、違った人生になったに違いないが、やはりあり得ないことだ。
あれからグルグル何度も考えては立ち止まり。気がついたら一年を経て同じ季節が巡ってきた。
あの日のような雨が降るたびに思い出す。パラパラパラと音をたてる様について敦子と交わした言葉を。
薄桃色の口から出る声は、低めで柔らかかった。
「雨音というとすぐショパン。きっと有名なあの曲のせいね」
「そうだね」
僕たちは古今東西の曲をランダムに触れるのが好き、という共通点があった。楽器は少しピアノを習っただけで、やめてしまったのも同じだった。
「『24の前奏曲』作品28の15番だね」
「そう、それ」
出版社や音楽評論家が曲に名付ける場合が多いとか、クラシックの話ができる同年代は珍しい。
そして、踊るような目で彼女は言ったのだ。
「雨降りは『パスピエ』がぴったりよ、パラパラと大粒の雨が屋根を打つようなときは」
『パスピエ』とは、まるで手品師が伏せたカードを当てるように感じられた。
「びっくりだな。同じことを思っていた。ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』だね」
「そう。『前奏曲』、『メヌエット』、『月の光』そして最後に『パスピエ』。どれも素敵だけど『パスピエ』は鬱々とした雨の日の気分を上げてくれるから特別なの」
「まさか今日『パスピエ』について話すとは驚いたな」
ぐっと彼女を近くに感じたのだった。
「雨の日も悪くないわね」
うなずく僕に彼女は笑みを浮かべた。その瞬間はしばらく僕の記憶の宝物だった。
何度か彼女に会いたいばかりにあの店に足を運んだものの、ずっと「休んでいる」とママは残念そうに言った。再び戻ることなく辞めてしまったので、会う望みは断たれてしまった。
一度会ったきりの敦子への思いは宙に浮いてしまった。
そこで、自分なりに考えてみた。再会できたとして、この一年で僕は少しでも成長しただろうか。一度キリの機会を得られるほどに。
「取りあえずおしゃべりを楽しもう」
ぐらいは言えるかもしれない。しかし「私を買ってくれない」と言われるなんて二度目はないだろう。
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