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困った困った、読む本が足りない。せっかくの雨の日だというのに。男はホットコーヒーにチョコソースをふんだんに加えながら、虚しく周囲を見渡した。一人暮らしのワンルームには所狭しと本が置かれている。そう、男は無類の本好きなのだ。人生にさしたる期待はないが、1つ明るい野望として、この世の全ての本を読みつくすというものがある。匙を取り出し、マグカップを満たすチョコソースとコーヒーを混ぜていく。濃いギリシャコーヒーにこれまた濃いチョコソースを混ぜた飲物をお供に、本を読むのが男にとって最高の休日だった。しかし今は、それが叶わない。見渡す限り読んだことのある本しかないのだ。困った困った、昨夜寝る前に読み切った長編ミステリーが最後の本だったのだ。雨の音が良い感じに聞こえてくる。窓の外は、梅雨らしく灰色に光っていた。
雨音は、男にとって2つの意味をもたらしていた。1つは、この音を聞きながらする読書は格別だというもの。もう1つは、外に出てはいけないという警告。男は雨の程度を確かめに、窓を開けて手を外に伸ばした。雨はしとしとと、特別強くも弱くもない程度で降っている。当然、男が伸ばした手にも雨が当たった。すると、男の手がみるみる緑色に変化した。大量にこぼしたインクを浴びたかのように、こっくりと手が緑色に染まる。
「うーん、やはりか」
男は手を引っ込めて、すぐそばの流しで手を洗った。緑色は、水で流され簡単に消えていく。これが男の、雨にだけ反応する不思議な体質であった。生まれつきだと思われる。赤子の頃は、雨に濡れる機会などなかったために、判明したのはいっちょ前に外を歩くようになってから。水道水には反応しない。雨にだけ、皮膚が反応して緑色になる。
驚いたのは、本人ではなく両親だった。特に母親は・・・雨が降るたびに息子を軟禁するほど、緑色反応を嫌った。義務教育を微不登校児として過ごし、高校からは通信で資格を取ってきた。母はひたすら男を雨水に触れないように守り、父親は口の堅い医者を探し、定期的に男を連れて行った。
男は雨の男を聞くたびに、顔を引きつらせて窓の外を見る母親の姿を思い出す。男はというと、両親が深刻ぶれば深刻ぶるほど緑色反応に関心が無くなっていった。特に治したいとも思わない。流せば落ちる、このくらいいいだろう。元来、細かいことを気にしない質なのだ。もちろん、人前で緑色が出ないように気を付けることはする。騒がれると面倒だから。
雨音は粛々と聞こえ続ける。結局、男が雨の日に読書をするのは、記憶の中で顔を引きつらせる母を忘れるためなのだ。魅力的な物語や文章は、集中すればするほど頭をそれだけで満たしてくれる。嫌な記憶も、逃避対象と捉えれば何かに集中する燃料になる。
しかし今は、逃避対象しかない。手元に未読の本が無いからだ。男は、定期的に本屋で数万円分本を買い込み、じっくり読み通す習慣がある。そのせいで、無くなったことに気が付かなかった。こんな日は図書館に行くのが良い。しかし、外は雨。この場に逃げ場がないと悟り、男はマグカップにラップをかけて冷蔵庫にしまった。これは、帰って来てから温めなおして飲もう。図書館へ行くと決めたのだ。
もっとも恐ろしいのは霧雨だ。あれは普通の雨粒よりはるかに軽いせいで、ほとんど空中を舞うように降っている。気が付かずその中を歩いて、全身がうっすら緑色になった経験がしばしば。幸い今日は強くも弱くもない、真っすぐ上から下へ降るお行儀の良い雨だ。男は、雨の日に外出しなければならない時用に揃えてある雨具を身にまとった。カッパを着て、ブーツにズボンのすそを入れて、防水スプレーをふんだんにかける。最後に大きなビニール傘をさしたら、完成だ。ちなみに荷物が雨に濡れると、それに触れる手が緑色になってしまうため、リュックはカッパの下にある。雨を嫌う亀の出来上がりだ。
外は、カッパのフードごしに見ても灰色で、男は自分に当たる雨の音にドギマギしながら歩いた。雨の中を歩くなんて、めったにないのだ。図書館は徒歩15分ほどの場所にある。昨日読み終わったミステリー、作者の別の著書があればいいな。着いたら検索機を使ってみよう。苦しい。6月の暑さと湿気の中、カッパとブーツを着こんでいるから苦しい。いいや、それだけじゃない。母のひきつった顔の皮膚が、ピンポイントで背後に現れ、自分を追いかけているような気がして苦しいんだ。早く本の森へ逃げ込みたい。森と言えば、緑。
「家に戻りなさい。化け物と思われるわよ」
つまり母よ、あなたは雨に濡れた俺が化け物に見えているんだな?
図書館の入り口前、多くの人が傘を閉じ畳む屋根の下で、男は必死でカッパを脱ぎ捨てた。暑くてたまらないのだ。元来、我慢は好きではない。濡れたカッパや傘に触れる時のために、手袋もつけている。早く片付けて、空調の効いた中に入りたいよ。
「まあ、今日は荷物が多いのね」
ハッと顔を上げると、目が覚めるようなエメラルドグリーンのドレスを身にまとった女が立っていた。貴族と一般人の中間をいくような、そんな風貌のこの女。この図書館で時々顔を合わせる常連だ。いつも、男とは反対方向の道からやって来る。今日は、ドレスのはしっこを濡らしながら、やはり緑色の傘をさしていた。歳は20代だと思われる。口調のせいでわかりにくいが、表情や肌に歳が表れている。
「どうも、今日のドレスも決まってますね」
カッパを専用の袋に詰め込みながら笑顔をつくる。女は緑色のピアスを揺らしながら首を傾げた。
「ドレス?これはワンピースよ。ドレスなんて図書館に着てくるわけないじゃない」
改めて女の恰好を見る。そうか、いくら袖が膨らんでいて裾にレースがくっついていようと、これはドレスとは呼ばないのか。
「最近、来ていなかったわよね。風邪でもひいていたの?」
カッパをしまい終えたら、次は傘をたたまねば。
「いいえ、梅雨の時期は毎年引きこもることにしているんです。しかし今日は、どうしても本が読みたくて」
「ふふ、誰だって雨の日は用なく出かけたりしないけれど、読書は立派な用事ですものね」
母の引きつった皮膚は脳裏から消えていた。
ハンカチを素早く取り出して、右手を覆う。検索機のタッチパネルに触れたら、指先が緑色に湿ったのだ。雨に濡れた手のまま、多くの人が画面に触れたからだろう。これは、図書館の中でも手袋をつけておくべきかもしれない。思わずため息が出る。暑い。
ともあれ、ようやく本の森にたどり着けた。安堵と興奮でそわそわする。検索機を使うのは諦めたが、海外ミステリーの棚を見ていたら、簡単に目的の作家の並びにたどり着けた。3冊抜き取って席へ持っていく。図書館ではコーヒーが飲めないのが残念だが、家とは比べ物にならない量の本に囲まれている。本の森、森といえば緑、緑といえば・・。
「じゃ、私は予約していた本を受け取りますので」
図書館に入ってすぐ別れた、離れていく女の姿が頭に浮かぶ。全身緑だが、髪は健康的な栗色だ。身につける緑が鮮やかすぎて、顔の印象はぼやけていた。一体、普段は何をしているんだろう。
「そんなことはいいんだ」
柄にもなくひとり言を口にして、本を開いた。古いインクの匂いが心地いい。
気が付くと、3時間ほど経っていた。ここで読むのはこれまでにして、まだ続く梅雨に備えて借りられるだけ借りて帰ろう。そのために大きなリュックを背負ってきたのだ。席を立つと、女が数メートル離れた場所で本棚を物色しているのが見えた。まだいたのか。しかし、立ち寄っただけでも、つい本棚を彷徨って結局長時間いることになるのは図書館あるあるだ。男はうんうんと頷いて受付へ歩いた。
受付は出入り口からほど近い。ガラス張りの自動ドアから見える外は、まだびしょぬれだ。
帰りは家に入れば人目に触れることはないのだし、傘だけさして急いで帰ろう。
「ちょっと、これ忘れてるわよ」
手続きを終えて、外に出たところで後ろから女の声が聞こえてきた。振り向くと、女はワンピースのすそを揺らしながらこちらに走って来るところだった。手に、男の手袋を持っている。しまった、読書の最中にいい加減じゃまになってテーブルに置いていたのを、忘れてきてしまったのだ。
「すみません。わざわざどうも」
「ふふ、帰りはあのカッパ着ないのね」
「めんどうなので」
その時、さあっと風がふいた。男はしまったと傘を開こうとするが、間に合わない。風と一緒に無数の雨粒が、屋根の下に立つ2人に当たる。
「手袋どうも、では失礼します」
男は片手で雨を浴びた顔を覆い、もう片方の手で女から手袋をもぎ取った。どこがどれくらい緑色になっているか、わかったもんじゃない。早くこの場を離れよう。
しかし女は逃がさなかった。男が引っ込める手を追いかけるようにぴょんと距離を詰めたかと思うと、両手で男の頬を包み込んだ。
「まあ、なんて綺麗な緑色」
彼女は髪だけでなく、瞳も栗色だった。男と顔を見合わせて、その瞳はキラキラと輝いている。男はあっけにとられて、隠すのも忘れて立ちすくんでしまう。女は気まぐれに手を放すと「そうね、またね」と笑って颯爽と立ち去って行った。
遠ざかる緑色の後ろ姿をしばし眺め、ようやく男は我に返った。他の人間に見られる前に、早く家に帰ろう。
温めなおしたコーヒーを前に、男はぼうっと立ち尽くしていた。マグカップに伸ばした手を、無意識に頬へ持っていく。家に着いてすぐ鏡を見ると、顔の半分が、絵具が飛び散ったように緑色になっていた。首も、点々と緑に染まっている。女はこの顔を見て、宝石を見たような歓声を上げた。
頬を両手で包まれるなんて、とてつもなく久しぶりだ。こんな風に触れてきたのは、母親くらい・・。驚いたことに、母親の顔が詳しく思い出せなくなっている。外を見て引きつらせていたのは、顔のどの部分だったか・・・?男は力なく椅子に腰を落とし、ため息をついた。美しい緑が彩る、あの女の顔が頭から離れない。子供のような無邪気な表情だった。そんなに緑色が好きなのか。格好を見れば、一目瞭然か。
触れられた頬がほてって、頭が少しくらくらする。男は窓辺に近寄り、カーテンを開いて、びしょ濡れの外を眺めた。次に彼女に会う時も、雨が降っていれば良い。そう思った。
おわり
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