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今日も、雨だった。車窓の硝子に、雨の筋が落ちる。流れ行く街並みを、雨が朧に染める。
今日も、車内は空いていた。ドアのすぐ横、座席の一番端に腰掛けて、金属の仕切りに身を預ける。冷たさが頭に沁み込んで来る。
と、電車が止まってドアが開き、誰かが乗り込んで来た。軽く猫背に身を屈めても分かるほどのスラッとした長身痩躯、少し長めのサラサラの髪の毛、袖の先の大きな手。今日も、清々しい雨の匂いがする。あの人だ。いつものように、金属の仕切りに背中を預けて、イヤホンを耳に挿し、音楽を聴いている。仕切り越しの距離、冷たい金属、その合間で僅かに触れる髪とシャツ。触れている感触もほとんどない、あの人が私を認識しているかも確かじゃない、この仕切り越しの距離が、途方もなく、ただただ愛おしい。イヤホンから微かに漏れ聴こえて来る音楽に、あの人の愛おしさを感じながら今日も、目を閉じる。
誰かに顔を撫でられているような感触がして、目が覚めた。霞む視界の先に、朧気に見えるものがあった。
目元に被さるくらいに長めのサラサラの前髪、どこか無関心なような色素の薄い白い肌。
霞が晴れた途端、恐怖が掠めた。私が身体を強張らせたのが分かったのだろう、あの人がスッと手を引っ込めた。
「…あ…あの……」
干からびそうになった舌をどうにか動かす。窓の外は暗く、車内には他に誰もいなかった。終点まで行ってしまったのか、やけに静かだった。
「…君も……逃げたくなったの」
あの人が呟いた。
「えっ……?」思わず聞き返す。
「全然起きないから」
話を聞いているのかいないのか、まるで独り言のように、あの人は呟く。
「…いや、何でもない」
そういうと、あの人はスッと立ち上がり、歩き出した。
「あ、あの……!あなたは……?」
白いシャツ越しに肩甲骨が浮き出ているその背中に問いかける。あの人は瞬くように足を止めると、私を振り返らずに逆に問いかけた。
「……君は?」
その問いかけに、言葉が詰まる。見ず知らずの人に自分の名前を打ち明けてもいいものか、束の間考える。その躊躇いが伝わったのだろう、あの人はフッと笑った。
「…必要ないだろ?」
そして、そのままスタスタと歩き出す。あの人が一人で歩いて行ってしまいそうな気がして、背中の白いシャツを慌てて撮む。
「待って!教えるから!」
「わ、わたしの名前はユカリ。紫と書いてユカリ。」
声が震えた。あの人が振り返り、私の頬の横の髪に触れた。
「……震えてる。」
そして舌で押し開けるように、唇を重ねた。あの人の舌が、私の口の中を滑る。あの人の唾が、喉を落ちる。どくんどくんと、あの人の液体を飲む。
「…怖い?」
唇を離し、あの人がそう聞いた。不思議と、恐怖は微塵も感じなかった。感じたことのないほど、心が安らいでいた。
ぶんぶんと首を横に振る。あの人がまた、フッ、と笑った。
「碧だ。」
「あお」
うん、とあの人が頷く。「行こう。」
あの人の大きな手が私の手を掴む。あの人の手は、思ったよりも男っぽくごつごつとしていた。
暗い、暗い、道を歩く。この世の生命体のすべてが寝静まっているのか、深い静けさが暗さを包む。
「…碧は…逃げたくなったの……?」
思ったよりも響いた自分の声に驚く。あの人は答えない。
「私ね…自分から、逃げたくなったの。」
あの人がどんどん一人で歩いて行ってしまいそうな気がして、たまらなくなって、繋がれたままの手を握りしめる。
「私、碧が好きだよ。」
恋とか愛とか、そういうんじゃない。身体の奥深く、心臓の中心で、私達は繋がっている。すべての生命体が滅びても、私はあの人のためなら身を滅ぼせる。そのくらいの気持ちで、私はあの人を愛していた。
「…ユカリ」
あの人が、ゆっくりと振り向いた。濡れた視界が絡む。どこかで、雨が降っていた。背伸びをしても、あの人には届かない。
「碧…しゃがんで。届かないよ。」
足がプルプルと震えていた。あの人が私の肩を抑え、身を屈める。あの人の舌が、唇の表面をなぞる。口を開き、あの人の舌に甘噛みするように触れる。あの人は、何処か怖がっているように見えた。自分に言い聞かせるように、舌先で躊躇っていた。
「碧、大丈夫だよ。」
あの人の頬を撫でる。あの人の身体を惹き寄せる。
「私が全部、受け止めるから。」
途端、あの人が私を地面に押し倒した。あの人の目に、激しい炎が宿っていた。あの人の呼吸音が、暗い穴に響く。あの人の唾液が、私を濡らした。濃密な接吻を交わし、永遠に続いていきそうな甘い蜜を飲む。ビーッと警笛が聴こえて来て、ライトが私達を照らし出す。電車がすぐ脇を通り過ぎて行った。あの人が、私の服を剥いだ。大きな手が、未熟な乳頭に触れる。あの人が、自分の服を脱ぎ捨てた。そして、自分の未熟なそれを持ち、私の中に入れた。
「怖がらないで」
あの人の手は、震えていた。汗とも涙とも似つかわしい畏怖と後悔で雁字搦めにされた液体が、垂直に降る。暗い穴の中で、触れる。触れる。触れる。甘い蜜が、身体に広がる。あの人のものは、大きかった。再び唇を重ねながら、あの人の身体を撫でる。あの人の大きな手が、私の身体を撫でてくれた。
息すらもつかせぬように、あの人と繋がる。0になって、私達は繋がる。この世のすべてから私達は切り離された。それは永遠だった。朝が来るまでの間、私達はただひたすらに、繋がっていた。
微かに朝の匂いを感じた時、あの人が少しだけ身を捩らせた。途端、身体に激痛が走る。
「ごめん」
あの人がバツが悪そうに、小声で囁いた。
「ユカリ、痛くない?」
「大丈夫」
あの人が安心から解放されたように、弱々しく微笑んで、私の中で離していた自分を閉じ込めた。触れているのと触れていないのと、その狭間の感覚。あの人を見上げる。あの人が目を伏せて、未熟なそれを抜いた。あの人が立ち上がる。
「…碧……?」
不安になって、あの人の名前を呼ぶ。あの人は、何処か近くを見ていた。いつの間にか、トンネルの向こうから朝日が差し込んでいた。あの人が呟く。
「もう、行かなきゃ。」
「えっ……?」
「……………………ごめん」
あの人が背を向ける。
「待って!碧!」
あの人を追いかける。あの人に手を伸ばす。走っているのに、ゆっくりと歩いて行くあの人に、追い付けない。伸ばした手が、空を掠める。
「碧!碧!!」
必死に足を動かす。目の前の背中を追いかける。歩いて行くあの人を追いかける。されど、届かない。
あの人が光に吸い込まれて行く。
「碧!碧!!」
暗い穴に、声が反響して自分を撃つ。雨が、私を濡らす。ぼやけた視界の先で、あの人は見えなくなった。
今日も、雨だった。車窓の硝子に、雨の筋が落ちる。流れ行く街並みを、雨が朧に染める。
今日も、車内は空いていた。ドアのすぐ横、座席の一番端に腰掛けて、金属の仕切りに身を預ける。冷たさが頭に沁み込んで来る。
と、電車が止まってドアが開き、誰かが乗り込んで来た。軽く猫背に身を屈めても分かるほどのスラッとした長身痩躯、少し長めのサラサラの髪の毛、袖の先の大きな手。今日も、清々しい雨の匂いがする。あの人だ。いつものように、金属の仕切りに背中を預けて、イヤホンを耳に挿し、音楽を聴いている。仕切り越しの距離、冷たい金属、その合間で僅かに触れる髪とシャツ。触れている感触もほとんどない、あの人が私を認識しているかも確かじゃない、この仕切り越しの距離が、途方もなく、ただただ恨めしい。イヤホンから微かに漏れ聴こえて来る音楽に、あの人の愛おしさを感じながら今日も、目を閉じる。
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