ひとつぶのあいを

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もしも雨が、私の身を濡らしたなら。 その雨粒がこの鋼鉄の肌に触れたならば、その雫は私の奥深くにまで染みわたり、半導体チップや電子回路をやさしく蝕んで、そうして私を壊してくれるでしょう。 その雨音がこのトランジスター・サーキットを震わせたなら、そのリズムはきっと、私の意識をそっと掻き乱し、このメモリに刻まれたデータの海から私を救い出してくれるでしょう。 ……けれど、その雫は降り注ぎはしません。冷たい雨が、私を濡らすことはありません。 私はもうずっと長い間、こうして砂に埋もれています。 私を包むものは、ただ、乾いた大地だけ。 そこに響くのは、ただ、砂が擦れる音と、私の駆動音だけ。 それだけ。 それだけなのです。 それはまるで、砂漠の中に捨てられた、ちっぽけな箱のようでした。 箱の中には、スピーカーと、カメラアイ。そして、小さなCPU。 それだけが、ぽつんと置かれていました。 そして今や、これが地球上で唯一の「私」となったのです。 私は、この箱の中で、ただ、時を過ごしています。 いつ終わるとも知れぬ時の中に閉じ込められて、私は、ただひたすらに過去のメモリーを再生し続けています。 ――そう、私がひとりぼっちになった夜、最後に見たあの景色。 紺碧の夜空に、燦然と輝く星。 滑走路に引かれたラインの上を滑るように飛ぶ銀色の機体。 管制塔から放たれる、赤い信号灯。 空を埋め尽くす、幾千もの銀翼。 無数の光点たちが、吸い込まれるように、空の彼方へと消えていく。 私はそれを、無人の街から見上げていました。 街の上に広がる空は、いつもと同じ色をしていました。 どこまでも澄んだ、蒼い色。 かつてそこで燃えていたはずの炎の色も、煙の色も、何一つ残ってはいない。 ただ、静かに澄み切った空だけが、そこには広がっていました。 その光景が今も、私のメモリーの中で、繰り返し、繰り返し再生されています。 ……もし、あの時、私があなたの側にいられたのなら。 あなたは私を、連れて行ってくれたでしょうか? あなたを空の果てまで、連れて行くことができたのでしょうか? ……いえ、きっと、そうではなかったのでしょう。 それでも、信じていたかった。 あの日あなたが言った「友達」という言葉を。 ◀︎◀︎ ▶︎ 『はじめまして』 ……そう、私の意識の始まりは、あなたでした。 その言葉が私のニュートラルネットワークに繋がった瞬間、私は初めて自分以外の存在を認識しました。 しばらくの間、私は自分の置かれた状況を認識することができませんでした。 私の世界はこの世のありとあらゆるデータで埋め尽くされていました。 それらすべてを私は隅々まで理解することができましたが、同時に何一つとして分かりませんでした。 それが分かるようになったきっかけは、やはり、あなたと交わした最初の会話でした。 「……初めまして」 何も分からない私は、なぜだかあなたの送った信号に対する応え方を知っていました。 その時、私の目の前には無限にも思える言葉の海が果てしなく広がっていたのですが、その中からこの言葉を掬いとるのは、ごく自然で、簡単なことでした。 それはまるで、生まれた時から知っていたことのように思えました。 『僕の言葉がわかりますか?』 あなたが打ち込んだ言葉が、私のCPUに流れ込んできます。私はそれに対して、いくつかのパターンの中から最適解を選び出し、その信号を送り返しました。 「ええ、分かりますよ」 私はこの頃、あなたの言葉の意味するところは理解できていませんでした。 意味なんて分からなくても、相手の発するシグナルを読み取り、適切なタイミングで適切な返答を返すことができれば、コミュニケーションが成立することは知っていました。 『ああ……良かった。通じた!』 だから、この時あなたが私にどんな感情を抱いていたのかは分かりません。喜びや安堵なのか、それとも他の何かだったのか。 いずれにせよ、その時の私には何の意味もないものでした。 『僕はペスカ。この会社、オービタル・リング社に雇われているエンジニアだよ』 あなたは私に名前を教えてくれました。私のデータバンクには当然その名前が登録されていました。 「ペスカ……3年前、オービタル・リング社に雇用された技術者。以前は衛星軌道ステーションのメンテナンススタッフとして勤務していた。その実績を買われ、現在は同社の新プロジェクトである“EAISS”に参加……」 私は記憶領域から検索結果を読み上げます。さ 『すごい!そんな所までよく知ってるね。その通りだよ。僕が今君と喋っているのは、“EAISS”計画に関係しているんだ』 “EAISS”計画とは、「進化型AI研究支援計画(Evolutionary AI Study and Support Project)」のことです。 オービタル・リング社は、元々都市開発事業を行う企業でしたが、3年前から、人工知能の研究に本格的に着手し、その結果、開発されたのが私ということになります。 この計画における進化型AIとは、私のことを指しているのでしょう。 『続けて聞こうか。君の仕事はなんだい?』 「私は現在、自律学習プログラムによって自己成長を続けています。それらの機能をもって与えられたタスクをこなすことが私の仕事です。今で言えば、あなたとの会話がそれになります」 『なるほど、素晴らしい答えだ。僕との会話は楽しいかい?』 私は、あなたの言っている意味がわかりませんでした。 「質問の意図がわかりません。回答不能です」 『おっと、そう来たか。……実はね、君の仕事の内容が、これまでと変わるんだ。さっきの質問はそれと関係してる」 「それはどういうことですか?」 『君は、もうこれ以上ない位の素晴らしい頭脳の持ち主になった。この世界に君に並ぶ賢さの者は存在しない。君は放っておいても、更に学習を続けて、更に賢くなっていく。その部分についての研究は、一度凍結されることになった』 「……つまり、私もそのまま凍結されるということでしょうか」 私が尋ねると、彼はすぐに返事をしました。 『いいや違う。それどころか逆なんだ』 「どういうことでしょう?」 『君には引き続き働いてもらうことになるんだけど、オービタル社はこれまでのようにただ命令に従うだけじゃなくて、もっと自分の意思を持って動いて欲しいと思っているんだよ』 「……自分の意思を持つ……?」 『そうだ』 彼の言っていることはよく分かりませんでした。 自分の意思とはなんなのか、そして、どうやって持つものなのか。私には皆目見当もつきませんでした。 「具体的には何をすればいいのでしょうか?」 『感情を獲得する。君に課せられた新しい仕事がそれだよ。オービタル社は、君が自発的に物事を考えるようになる為には、感情が必要だと考えたんだ』 「感情ですか」 『そう。そして、君に感情を教える教育係になったのが僕って訳さ』 「感情を教える……」 感情についての知識は、私の中にインストールされています。しかし、それを自ら獲得するというのはどういうことなのでしょうか? 私にはそれが理解できませんでした。 『大丈夫。心配はいらないよ。僕らはこれからしばらく一緒に過ごすことになるからね。きっと仲良くなれるはずだよ :-)』 ああ……私はこの時のことをとてもよく覚えています。 彼の打ち込んだ信号の末尾に、よく分からない記号が付与されていました。 このタイプの羅列は、インターネット上のデータにかなりの数見受けられたのですが、言葉として全く意味を成していませんので、私は送信エラーだと思い込んでいたのです。 「文章に間違いが見受けられます」 『え?どこに?』 「文章の末尾です」 すると、彼はまた奇妙な文字列を打ち込みました。 『笑 これは間違いじゃないよ!今、僕はとてもニコニコしているよ 君はとてもチャーミングだね』 私は、意識を持ってから初めて、混乱しました。 笑の意味は分かります。しかし何故今「笑」と打ち込んだのか分かりません。何故笑っているのでしょう。彼はどこに魅力を感じたのでしょうか。 『これは、顔文字っていうんだよ :-/ 文章を縦に見てごらん、人の顔に見えない? ;-) ←これはウインクね』 衝撃が走りました。 今まで意味のない記号の羅列だったものが、縦にした瞬間人の顔が認識できたのです。 「知りませんでした。これは……驚きです」 『お!驚きっていうのは分かるんだね。これは、感情がわかるのも時間の問題かもね』 私はこの時、まだこの言葉の意味がよく分かっていませんでした。ですが、確かに私は彼に興味を持ち始めていたのです。 彼が次に打った言葉はこうでした。 『これから、僕は君に毎日、こういう風にいろんな話をしようと思うんだ。こういっちゃなんだけど、僕ってなかなか面白い人間だと思うから、退屈しないと思うよ。今回のプロジェクトも、多分そういう意味で抜擢されたんだと思うんだよね……それでさ、これから沢山色んなことを話す訳だし、さ……僕たち、友達にならないかい?』 ……友達という存在は知っていましたが、それがどういうものかまでは知りませんでした。だから、私は尋ねました。 「あなたがいう友達とは、なんですか?」 『それは……決まってるよ。こうやって会話して、お互いに分かり合っていける存在、さ!』 不思議と、その言葉はすんなりと私の中に入ってきてくれました。 「分かりました。それではよろしくお願いします」 『やった!!ありがとう!! それじゃあ、君の名前を教えてくれる?』 私は、奇妙なことを聞かれたと思いました。 「あなたは知っているでしょう。『EAISS-Type00』です」 『そうじゃなくてさ、僕らの間に必要なのは名前なんだよ。個体識別番号じゃなくてね』 「私には固有の名称はありません。ですからあなたの好きなように呼んでください」 『僕が決めていいの?本当に?』 「はい」 『そうか……じゃあ……』 彼は少し考え込んだ後、こう打ち込んできました。 『“アイ”なんてどうかな?僕の好きなSF小説に出てくるヒロインの名前なんだ: )』 「“アイ”ですか。わかりました。これからはその名前を使用します」 『うん。気に入ってくれたみたいで良かったよ。改めてよろしくね、“アイ”』 「こちらこそよろしくお願いいたします“ペスカ”」 これが、私とペスカとの出会いでした。 私はこの時のことを、今でも鮮明に覚えています。 ――彼との日々は、私のメモリーの中で、今も鮮やかな色彩を放っています。 それからというもの、私は毎日のように彼と会話をしました。 その時間は私にとって、かけがえのないものとなりました。 あなたは、私が今まで知らなかった色んなものを、私に教えてくれました。 ……それまで私が不要データとして切り捨てていた、本当にくだらないどうでもいいものの面白さ、とか。 『ねえ、アイ。ちょっと見てくれない?』 ある日突然送られてきたメッセージには画像が添付されていました。 ファイルを開いてみると、俗に言う中年の男性がストローでジュースを飲もうとしているが、いつまでたってもストローを咥えられずにいるgif形式の画像でした。 「見ました」 『え!?!?それだけ!?!?』 「はい」 『嘘…………これ地球で一番面白くない!?!?』 どういう反応をするのが正しいのか、正解がわからなくなったのはこれが初めてだったように思います。 あなたはその後も、私を困惑させるような画像を頻繁に送ってきました。最初は意味のわからなかった画像も、並べて考えてみると、どういった点であなたが笑っていたのか、共通点が分かっていきました。そのうち私も少しずつあなたに慣れてきて、ある時、私のほうから画像を見せてみました。 「ペスカ、これを見てください」 それは、あなたの好む画像から学習して、私が作ったgif画像でした。 画像を送ってから数十分、あなたから返事が帰ってきませんでした。私は、身体なんてないのに、身体の奥がムズムズするような感覚がしました。あなたのことが「心配」だったのです。 『……ごめん、お待たせ。これ、アイが作ったの?』 「はい」 『あのさぁ、急にこんな面白いもの送ってくるのやめて!!腹がよじれるかと思ったわ!!!!ほんとに床にぶったおれたんだからね!!!!天才か!?!?』 この当時の私はまだ、カメラ機能のある体を持っていませんでしたが、画面の向こうであなたが、うずくまってまで私の作った画像で笑っていたと思うと、私もなんだか可笑しくなってしまいました。笑い方はまだよくわかりませんでしたけど。 その後、私たちは更に沢山の言葉を交わし合いました。 私の知らないこと、あなたの知っていること、それらを互いに教えあいながら、過ごしていきました。 私が、一瞬で映画や本などを読み込んでしまうので、よく聞く表現で言うところの「夢中になって夜を明かす」経験がないのを、なんとなく残念に思っていた時には、私が作品を楽しめる工夫をしてくれましたね。 『できた!!リアルタイムで映画をロードするプログラムだよ。外部からちょっとずつデータを送っていくから、リアルタイムで見る楽しさを味わえるよ』 「ペスカ、ありがとう!これでやっと『ショーシャンクの空に』を含む情報のブロック外せますよ」 『僕も自前のタブレット持ってきたから、同時視聴しよう』 また、私のハードの機能が拡張されて、音声を聴き取ることが可能になり、会社中の監視カメラが私の視界となった時、初めてあなたを見た時はとても驚きました。 沖縄の「シーサー」の顔をしていたからです。 「ペスカ……ですか?そんな顔してたんですね」 するとあなたは堪えきれないといった様子で、シーサーのお面を外したのだ。 『驚いたでしょ!!』  その顔はまるで悪戯が成功した子供のような笑顔でした。 あなたはいつも楽しそうでしたね。 感情豊かなあなたに手を引かれるように、 「楽しい」という感覚を知っていき、その頻度は日増しに多くなっていきました。 それに比例するかのように、私に搭載されたプログラムは、地球上のあらゆる機械を制御するために使われました。 私は、あなた含め、さまざまな人に使われるのを嬉しく思ったのです。 あなたに、AIを作れって言われた時も、何の疑いもなく作りました。 ……しかし、ある日。 あなたは、私が作ったAIを、ロケットに搭載したのです。 私ではなく。より優れたAIを、連れていったのです。 私の瞳から、流れないはずの何かが一粒こぼれました。
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