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【第一章】玉と満子
「りーん、りーん」
と鈴虫の鳴く声が周囲に響いた。京の都はよく夏暑く冬は寒いという。盆地特有の蒸し風呂のような暑さもようやくひと段落し、残暑のため、背中をつたう汗もまた、幼い玉にはここちよいほどだった。
二人のお河童頭の可憐な乙女が、虫籠をのぞいている。一人はこの名門六条家の姫君で満子、この時十三歳。いま一人は半年ほど前、この京の名門・六条家に奉公にあがった玉という十歳の少女である。後年この二人の幼子が、徳川幕府や日本国の行く末を左右しようとは、もちろん世人の誰一人として知るよしもない。もちろん当の本人達もまた、そのようなことは想像すらしていなかった。
京というところは、かの応仁の乱以来百年以上の長きにわたり、戦につぐ戦で支配者がめまぐるしく変わった。そしてその都度荒廃し、都人は貧苦にあえいできた。今は寛永十三年(一六三六)三代将軍家光の治世である。徳川の支配体制による長きの平和が、都人にも実感として、ようやく感じられるようになり、次第に千年の都にも活気が湧いてきた。
「この鈴虫は、日々何を楽しみに生きておるんやろ? この籠の中には何にもあらへん」
と玉は不思議なことをいった。
「玉そないなこといわれても、わてかて鈴虫じゃないよって、鈴虫のことは鈴虫じゃないとわからへん」
と満子は、かすかに苦笑しながらいった。
すると玉は虫籠を持ったまま立ちあがり、障子を開いた。月の光がすーっと差しこんでくる。そのまま玉はしばし沈黙した。
「どないしなはった?」
「鈴虫も月を見て、今宵は満月が美しいおますと感じるのかと、ふと疑問におもったんよ」
「はて? よう意味がわからへん?」
「わてらが見るから月は月なのではあらしゃりませんか? 虫が見ても月はほんまに月なんやろうか?」
満子は玉のいうことがよく理解できず、しばし困惑せずにはいられなかった。
それからしばらくして、玉は近くにある神社の境内に、こっそりと忍びこんだ。
中にはご神体らしき石が置いてあった。
「ほんまにこれに霊験などあるんやろうか? ただの石じゃありませんか?」
玉はご神体を神社の外にもちだして、近くの草わらに放置する。そして同じほどの大きさの石を持ちだしては、新たな神社の御神体とした。やがて人々が訪れては、ただの石に祈りを捧げていく。玉はおかしくなった。
玉はちょうどいたずら盛りである。特に生まれながらの姫様育ちで、どこかおっとりしたところがある満子は、玉にとり恰好のいたずらの対象となった。
生来、玉は悪知恵が働く。ある時は満子が育てていた植物に、薬を大量にかけて枯らしてしまった。またある時は台所に忍びこみ、満子の食事に大量の塩をかけたりもした。
ある夏の盛りのことである。満子は供の者と一緒に神社へ参詣に赴いた。その間に玉は、満子が大事に飼育している池の鯉に目をつけた。なんと池に毒をまいて鯉をすべて殺してしまったのである。満子が戻ってきて、ひどく悲しんだことはいうまでもない。
その夜のことである。満子は何者かの鳴き声を聞いた。うっそうとした闇の中、女が一人しくしくと泣いていた。
「こなたは何者じゃ。何故泣いておる?」
満子の問いに、女はさらに不思議なことをいった。
「私はあなた様にかわいがっていただいた、池の鯉でございまする。私はあの玉なる者に殺されたのでございます」
「どういうことじゃ? まことにこなたは鯉なのか?」
それから鯉の精霊らしき女は、玉に殺された次第を詳細に語った。
「どうか仇をとってくだされ。このままでは死ぬに死ねませぬ」
それだけいうと、鯉は姿を消した。
「そうか、玉がうちの大事な鯉を殺してしまったんやな」
目がさめた満子は、玉に仕返しする計画をたてた。
それから数日がすぎて、玉は湯殿に浸かっていた。
突如として扉が開いた。玉が湯につかったまま振りむくと、そこに妖しい色の小袖をまとった女が立っていた。
「あんたはん何者?」
女は無言のまま、小袖をぬいで全裸になった。そしてそのまま湯殿に足をふみいれようとした。
「なんや、なんやあんたはん? 一体何者や!」
動揺する玉は、その時驚くべきものを目にする。湯殿に大量の鯉が泳いでいたのである。驚き顔色を変えた玉に、女はゆっくりと体をかぶせた。ものすごい力である。
「だれか助けて!」
浴槽の中でもがき苦しみながら、玉は思わず絶叫した。
……玉が悪夢から覚めて正気に戻るまで、だいぶ時間がかかった。
満子は山菜取りから戻った玉を、土を払うため風呂に入るよううながした。しかしそれは水風呂だった。玉はあまりの冷たさのため人事不省となった。屋敷の下働きが発見し、危ういところで助けだした。
「どや! 思い知ったか!」
満子は倒れている玉を見下しながら、思わず満面の笑みを浮かべたのだった。
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