【第一章】白蛇の化身

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【第一章】白蛇の化身

世はすでに三代将軍家光の治世になっていた。長く大御所として、幕政に隠然たる勢力をほこってきた二代将軍秀忠は、 寛永九年(一六三二)世を去った。  その葬儀は芝の増上寺にて、供回りわずか十数人という簡素さだった。できるだけ質素に、民にさまたげにならぬようにというのが、秀忠の遺言だったといわれる。  徳川も二代将軍の治世までは、華美をできるだけ慎み、金銭の浪費を惜しんできた。しかしいよいよ本格的に家光の治世をむかえてからは、徐々に様変わりしていく。やがて華やかな元禄の世をむかえることとなり、そのことが玉の運命をも大きく左右していくのである。  寛永十四年(一六三七)、十歳になった玉は六條家に奉公にだされる。六條家は、村上源氏の流れをくむ名門である。   ここではじめて当主有純の愛娘満子と出会い、その召使いとなる。その後、半生を運命共同体として過ごす両者のまさに宿命的とさえいえる出会いだった。満子は玉より三つ年上だった。  最初玉が満子から受けた印象といえば、あまりかんばしいものではなかった。 「この人は阿呆か?」  というのが本音だった。いかにも良家の令嬢といった感じで、カルタをやっても覚えがわるく、瞬時の判断ができない。玉と満子で勝負事をすれば、だいたい玉が勝った。  黙って終日、庭の鯉をながめていることもあった。玉にしてみれば、それだけで一日が終わって何が楽しいのか不思議になるほど、満子は飽きることなく鯉をながめている。ついには雨が降りだしてもなお、かまうこともなく満子は鯉の観察を続けた。  恐らく満子としても、このまま何事もなく、名門六條家の姫君として終わる運命を予期していたのかもしれない。だが、やがて時代は彼女をして、想像だにしていなかった方角へ歩ませることとなる。  少なくとも、後年幕閣の人をして「第二の春日局」と恐れさせたほどである。だたの凡庸な姫君ではなかったことは確かだ。その胸中には、常に熱情のようなものが宿っていた。  事実満子は、姫様育ちでありながら時として木に登ることもある。あれいは同じ年ごろの公家衆の男の子等にまじって遊び、時として喧嘩して、男の子等を泣かすこともあった。  こうした満子に対し、玉が時としていたずら心をもったことは以前に書いた。    さて、玉が十一歳、満子が十四歳になった年のことである。満子は玉と共に、母の妙子の実家戸田家での七夕の会に招かれた 「今宵は織姫さんと彦星さんが、年に一度顔を合わせる日であらっしゃりますなあ」  と三十六歳の妙子は、年がいものなく、顔を赤らめながらいった。 「けんど織姫さんも彦星はんも、一年も会わずにいたら、他に好きな人ができたりせんのやろうか?」  満子と共に花火に興じていた玉が、ふと顔をあげていった。  妙子は思わず閉口した。十一歳にしてはずいぶんとませていると思った。恐らくこれは母親の影響であろうか?  すると、蝶の図柄が入った浴衣を着た満子が立ち上がった。 「うちは子供のころから、うちだけの彦星様の夢をよう見る」  と何やら真顔でいった。 「そしてうちはその方と一緒に、御殿のような屋敷に住んでおるんや」 「まあ、それで相手の方はどういう方?」 「それが、うちと全然年が違う老けた殿方なんよ。それでいて、考えることといったらまるで子供やった。しかも時々癇癪をおこして刀を振り回すんや。ほんま面倒といったら……」  妙子はまたしても閉口した。もちろん一体何を意味するのか、妙子にもわからないし、満子自身にもこの時はまだわからなかった。 その日、妙子は実家泊りであった。玉と妙子だけが六條家にもどることとなった。ところがその帰路事件はおこる。  鴨川のほとりで、玉は簪を川に落としてしまった。拾おうとして手をのばしたところ、そのまま川に転落してしまう。  玉は泳げない。満子が必死に手をさしのべるも、無常にも後わずかとどかず、玉は急流に流されていってしまう。やむなく満子も川に飛びこむも、実は満子も泳げなかった。  その翌日明け方のことである。近在の百姓が、下流にうちあげられている二人の姿を発見する。 「これは? もう死んでおるのかな?」  二人ともずぶ濡れで、長い髪をふり乱し、浴衣の下から素肌が透けて見えていた。百姓は欲情にかられたのか、まず満子の小袖から胸に手を通す。次に玉の太腿をまさぐってみようともした。ところがその時、異変がおきた。  突如水柱があがったかと思うと、百姓の前に姿をあらわしたのは、二匹の巨大な白蛇だった。いずれも恐らく四メートルはあるだろう。百姓は恐れて、悲鳴をあげて逃げ去ってしまう。  しばしの間、岩陰から様子を見守ると、そこにはすでに白蛇はいなかった。代わりに、この世のものとも思えないほど肌の透き通った、二人の若い女が立っていた。直感的に百姓は、二人が蛇の精霊であることを察した。 「姉さん、一体どうしたらいいかしらこの二人? いっそのこと丸のみにしてしまいましょか?」  妹のほうが、牙をむきだしにし、眼光に獣だけがもつ魔性をにじませながらいった。 「いや、我らとて人の体を借りねば、あと数年しか魂を保てない身。ちょうどいい、この者たちの体を借りるとしよう」  そういってこの妖しい姉妹は蛇の姿と化し、玉と満子の全身にまとわりつき、やがてその姿を消した。    結局、玉と満子は奇跡的に命をながらえることとなった。そしてこの事件以後、命の恩人と思い違いして、玉の満子を見る目がかわった。いたずらも、ほとんど影を潜めることとなる。  やがて満子は十五、玉は十二になる。成長するにつれ、満子は美貌の片りんを徐々にではあるがのぞかせることとなる。まさに白蛇が乗りうつったかのような、透き通った男を魅惑せずにはいられない美貌だった。  玉もまた絶世の美女であったといわれるが、どうも後年の徳川幕府の資料にでてくる玉の容姿については、信ぴょう性が乏しいようである。 「立臼に菰をまいたような太い短い体形で、顔は岡目の面に似ていた」(企方様の話)  後年女嫌いの家光の心を、瞬時にして射止めた満子に比べ、玉はそれほどでもなかったのかもしれない。  行儀作法や琴や三味線などの稽古でも、玉は満子に及ばなかった。愚鈍と思われた満子は、成長するにつれ、隠された才能を徐々に発揮しはじめる。  今風にいえば恐らく、そこそこ偏差値の高い学校に通う、成績優秀な良家の子女といったところであろう。  そして満子と玉にとり運命の寛永十六年(一六三九)をむかえる。玉は十三歳、満子は十六歳になり平安だった両者の人生は、この一年で激変するのである。  まず、満子の母妙子が三十七で他界する。これをきっかけに、妙子の実家戸田家からの莫大な仕送りは全く途絶えた。経済的に苦しくなった六條家では、玉と満子をこれまで通り養う余裕はなくなった。 「実はのう玉、そなたには実家のほうで縁談がもちあがっておるのじゃ。そなたの姉が奉公にあがった日野家につかえておる者じゃ。決して悪くない話だとは思うが……」  と当主の有純は扇子であおりながらいう。  玉は驚くと同時に、かたわらに控える満子の顔を見た。 「満子様は、この先いかがあいなるのでございましょう」 「満子なら尼寺に赴くこととなった。伊勢の慶光院という由緒正しき寺の七代目院主をつとめることとなったのだ」  玉はしばし沈黙した。 「どうした? こなたうれしくはないのか?」 「いえ、ただ私にとって事があまりにも重要なので、しばし考えさせてもらってもかまいませんか?」  そういって、玉は有純のもとを退いた。  この頃、玉の満子を見る目は、羨望のまなざしへと変わっていた。あれいはあこがれか? 別れを惜しんで玉は苦悩した。そしてある夢を見た。  
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