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ある日、美愛がピアノを習いたいと言い出した。美愛が小学校一年、私が高校一年の春のことだ。隣の席になった子がピアノ教室に通っているのだという。
「美愛、ピアノがしたいの。ね、いいでしょ? 亜弥ちゃんと一緒のお教室に行きたい」
母は「そうねぇ」と言って私の顔をチラリと見る。私にはピアノも歌も習わせなかったからだろう。確かに自分の時はダメで美愛だけいいっていうのは腑に落ちない。でも何だかまるで私が原因で美愛がピアノ教室に通えなくなるようで少し嫌な気分だった。私は上目遣いで母をじっと見ている美愛の頭をそっと撫でて頷く。
「うん、いいじゃない。習わせてあげようよ、母さん。美愛、ちゃんと続けるのよ?」
美愛が「はーい」と元気よく片手を上げる。母はあからさまにホッとした表情を浮かべていた。
(何か……イヤな感じ)
この頃から私は度々母に対して苛つくようになっていた。昔みたいに無条件でお母さん大好きとは言えなくなっている自分に気付く。美愛が生まれてから私と母の関係も少しずつ変わっていったのかもしれない。
「じゃあ見学に行ってみましょうか」
母の言葉に美愛が歓声を上げる。美愛の笑顔を見ていると母に対する蟠りもどうでもよくなる。母と美愛はさっそく教室に赴き入会を決め、すぐにピアノを買った。家で練習ができなければ困るのは確かだがこんなすぐにピアノまで買うとは思っていなかった私は少なからず驚いた。少し飽きっぽいところのある美愛だからちゃんと続くかどうか様子を見てから買えばいいのに、そう思ったが嬉しそうに鍵盤を叩く美愛を見てその言葉を呑み込む。
「美恵ちゃんも習ってみる?」
母がとってつけたように聞いてきたが無論断った。高校生になって今更美愛と一緒に教室に通うのも何だか格好悪い。美愛は毎日意気揚々とピアノの前に座り出鱈目なメロディーを奏でる。残念ながら妹に音楽的なセンスはないらしく甲高い声で歌いながらピアノの鍵盤をバンバンと叩く様子を見て家族は苦笑したものだ。
一事が万事こんな調子で美愛はとても甘やかされて育った。普段はにこにこと愛想のいい子なのだが気に入らない事があると途端にキィキィ声で喚き散らす、そんな子になってしまった。
「嫌、嫌ったら嫌! 美愛は嫌なの!」
一度こうなると手が付けられない。私と母は途方に暮れて彼女の機嫌が直るのを待つしかなかった。考えてみればきちんとした躾をしないのは一種の虐待だったのかもしれない。美愛は可愛らしい顔をした驕慢な少女へと成長していく。そして私たち家族にとって忘れることのできないあの出来事が起きた。
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