序章

2/2
前へ
/118ページ
次へ
 時間は無限にあるようで、実際のところそれは幻にしか過ぎない。  俺が15の歳にこのアメリカという国に渡ってから、もう既に10年以上の歳月が過ぎていた。 「イズモ師範代、これをお願いします。門下生の新しい段位表です」 「ああ、はい」  天武流NY道場の事務所での仕事は主に事務全般と経理だ。この大きな道場の管理維持のためには、こういう縁の下の力持ち的な地味な仕事も欠かせない。その為に大学にも行った。  この道場は、俺が来た10年前よりもかなり門下生は増えていた。  以前は柔道と空手に押され気味ではあった合気道だが、ここ数年の安定した日本ブームでそれ以外の日本の武道も大分認知されては来ている。  今の俺は昼間は道場の事務方の仕事をこなし、夕方からは天武流の師範代として門下生の稽古を見る生活だ。 『アレクサンドロ・モルダー 五段昇格』  先日の昇段試験でアレックスは見事に五段に昇格した。大学を卒業したアレクは、この道場の非常勤のコーチとして天武流に残ってくれた。  だがあくまでもそれは、画家としての活動に負担にならない事が前提だ。今は主に幼年部の指導を受け持ってくれている。  それでもアレクサンドロという逸材が道場に残ってくれたのはとてもありがたい。  門下生が増えたNY道場はかなり手狭になって来ている。今は第二道場の建設が検討されている時期だ。 「昂輝、新しい段位表は来たか?」 「副館長」  エルンスト副館長がやってきた。珍しいな、いつも副館長室で雑務に追われているのに。 「これです、あとで打ち直して正式な書面にします」 「うむ」  手に取ったそれをしげしげと眺めるエルンスト副館長だ。そして満足そうに笑った。 「やはりアレックスが五段に上がったか、リエーフは三段。予定通りだな」  アレクとリエーフ・ロブスキーはほぼ同年代だ。ストイックに己の鍛錬を妥協なく追い求めていくアレクとは対象的に、賑やかでひたすらアグレッシブなリエーフ…落ち着きがないとも言う。  同年代と言うだけで入門の時期は違うし、性格も真反対のこの二人が仲が良いのはこの道場の七不思議でもあったりして。 「次世代エース候補の二人ですからね、期待してます」 「なんだ昂輝、急に老けこんだような事を。お前もこのNY道場後継者候補の一人だろうが、その歳で天武流六段位の師範代はそう何人もいないぞ」 「そうでした」  自分が後継者候補…そう言われて久しい気もするが、最近は本当にそれで良いのかと思うようになって来ていた。 「ちょっと出ます、ヤマトを連れて行きますから」  道場の番犬ヤマトの午後の散歩がまだだ、きっと待ちかねているだろう。 「あとで誰かにやらせてもいいぞ、お前も忙しいだろう?」 「いえ、気分転換ですよ」  俺の妹が可愛がった犬だ、美音が留学中はとてもこのヤマトに慰められていた。今日も写真を撮って送ってやろう。  代わりに送られてくるであろう俺の甥っ子、美音と拓海の長男・鷹の写真も楽しみだ。
/118ページ

最初のコメントを投稿しよう!

49人が本棚に入れています
本棚に追加