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祭里がプレハブに着いてから、四十分が経とうとしていた。未だに人が来そうな気配はない。
(なんで誰も来ないの……?)
不満の色合いを含んだその疑問が自然と浮かんできたとき、それまであえて気づかないようにしていた憂鬱の重石が、さらに重くなったような感じがした。
(誰も来ないって分かってて、私を待たせたのかな。先生もひどい……)
このままだと、自分に関わるすべてに疑いの目を向けてしまいそうだ。ひどい疑心暗鬼だと思いながらも、その気持ちは鎮まらない。その憂鬱の中で、急激に睡魔が襲ってきて、彼女は微睡んだ。
(先生は辞めてもいい、って言ってたけど、本当はそんなつもりなかったのかな。……そうだよ。私は後野祭里。いっつも手遅れになってから気づいて後悔するんだ……)
*
「おたのしみかい」と一文字ずつ書かれたパネルの数枚が外され、「お のし かい」になっている保育園の門が見える。
「ごめんね。ごめんね……!」
私は涙ながらに、みんなに向かって謝っていた。
「お前、」男の子が何か言おうとした瞬間、私の頭に電撃が走るような感覚があった。
彼の言葉の一つ一つが、胸の奥深いところにまで突き刺さってくる。
「──ほんっとにタイミング悪すぎ! お前の名前、マジでピッタリだよな。クソが。くたば──」
*
「──ッはぁっ。は、は……」
過呼吸を引き起こしかけ、祭里は目覚めた。背中に、人の手の形の温もりを感じる。
「あ、起きた。大丈夫?」
セーラー服の布地の上から祭里の背中に手を添えていたのは、詰襟の学生服を着た男子生徒だった。彼のセミロングの黒髪には青い一筋のメッシュが入っている。体つきは華奢で背も高くはないが、人好きのしそうな顔と爽やかな声が、彼が人気のある人物だということを物語っていた。
「遅れちゃってごめんね。それにしてもびっくりしたよ。着いたら、女の子がうなされてて、突然呼吸を荒くしはじめてさ……。背中をさすってあげることしかできなかったけど、無事そうでよかった」
「あ、ありがとうございます」
そう言って頭を下げた祭里のそばに、ジャスミン茶入りの紙コップが置かれた。
「え、いいんですか? コレ、もともとあなたのペットボトルに入ってた……」
「うん。だいぶ遅れちゃったから、一応お詫びの気持ち」
そう言って爽やかに笑ってみせた彼に対して、祭里は再度礼をして、ジャスミン茶を飲む。
「……じゃあ、まずは自己紹介かな。僕は速水悠。去年の文化祭実行委員長。今日は引き継ぎをしに来たんだ」
「それは聞いてます。わ、私は、後野祭里といいます。今年の文化祭実行委員長になる……かも……しれない、者です」
速水に続いて自己紹介をした祭里は、なんだか落ち着かなくなっていた。速水と名乗った彼が、言い知れぬ期待感を抱かせるような人だったからだ。
この人は、何かしてくれる。理由はわからずともそう思わせる何かが、彼にはあった。これが、文実委員長の適性というやつだろう。
(……やっぱり、私には向いてないよ)
祭里は、わざわざ来てくれた先輩への礼儀として、せめて引き継ぎはきちんと受けようと思ったが、委員長を辞す意向も同時に固めた。
しかし、そんなことはつゆ知らず、速水は優しく、かつ丁寧に、文化祭実行委員について教えてくれる。彼は、ホワイトボードにわかりやすい書き込みをしながら、説明してくれるのだ。
「文実委員の仕事は、名前の通り、文化祭にかかわる実務全般だよ。金券販売だけは生徒会が担当してくれるはずだけど、企画・運営・広報・実行……そのすべてを請け負うんだ。大変だけど、先生たちもいるし、案外なんとかなるもんだよ」
「うちは文化祭期間異常に忙しいからね。『ブラック委員会』とか称されることもあるんだ。だから人が少ないんだけど。でも、文化祭を終えたあとの達成感は凄まじいよ。文化祭中でも、最終日の後夜祭とか、僕泣いちゃったし。感動して」
爽やかな声で明朗に喋っていた速水は、途中で声を低めた。
「……後野さん」
突然名前を呼ばれ、祭里は心臓が脳天まで突き抜けたかと思うほど驚く。
「は、はい」
「さっきからずっと思ってたんだけど」
祭里の心臓が鼓動を刻むスピードが上昇し、その音が大きくなっていく。
(もしかして、委員長辞めるつもりなの、態度に出てた……?)
「は、はい、なんでしょう」
「やっぱり、不安?」
「えっ……?」
予想外なことを訊かれた──けれど、その問いかけは、祭里の心を大きく揺さぶった。文実委員長は辞退するのだから、委員長になることに対する不安を抱くのはおかしいはずなのだが、何故か、得体の知れない不安が祭里の中にはあった。そのせいか、彼女は無意識に「はい」と答えてしまった。
すると速水は突然、「……アレ、見た?」と言って、棚の上にある横断幕を指差した。
「えっ……?」祭里もそちらに顔を向ける。「ああ、ここに入ってきたときに、チラッと見ましたけど……」
『みんなありがとう!』『文化祭たのしかった!』『今日まで辛かったけど、頑張ってきてよかった』『後輩たち、頑張れ。しんどいときもあるだろうけど、きっといいことになる』そのような言葉で埋め尽くされた横断幕を見て、速水は懐古するような穏やかな表情になった。
「アレね、見たらわかると思うけど、先輩からのメッセージ。文実以外の人からのもあるよ。先輩たちも人数少なかったらしいけど、最終的に、学校のみんなで協力して、いいものを作り上げたんだって。それが何年も積み重ねられた結果が、アレ」
祭里は横断幕を見つめる。よく見ると、文字だけではなく、水玉模様の滲みもある。
(あれは汗……? 涙……?)
「不安な気持ちも分かるけど、きっと大丈夫。頑張ってれば、学校中のみんなが力を貸してくれる。あの横断幕が、何よりの証拠だ。先輩たちも不安を乗り越えてきて、そして──意志を繋いできてくれた。僕も在任中、辛い思いを味わったりしたけど、アレに何度も励まされた。歴代の先輩もみんなそうだったと思う。だから──」
速水は横断幕のそばに行き、それを愛でるように撫でながら話を続ける。
「後野さんも、みんなを引っ張って、繋いでいってほしいな。温かい気持ちのバトン」
それを聞いて、ふと、心のリレー、という言葉が脳裡に浮かんだ。そして、自分の中から、なんとなく懐かしい何かが湧きあがってくるのを感じた。
そのときには、祭里はすでに自分が委員長になることを無意識下で受け入れてしまっていた。そのことに気付き、祭里は戸惑う。
色々な感情が混み合って、祭里は困ったような笑みを浮かべた。窓から差し込むオレンジ色の光が、彼女の髪と左頬を照らしている。
「……ありがとうございます。でも……私を含めて三人しかいないし、残りの二人はどっちも来てないし……やる気のない人たちなのかも……そんなんで、やっていけるかどうか……」
速水は目を見張った。「え、この時点で二人もいるの?」
「えっ……?」
速水はゆっくりと言葉を継ぐ。「僕のときは、はじめは僕だけだったよ。委員会に入るかどうかは希望制だからね。最初から入るってことは、少なくともやる気はあるはずだ。よかったよ、それなら絶対うまくいく」
彼は心底安堵したような顔をしていた。「それに、今の君の顔、」
そう言って速水は祭里の顔を見つめる。
「──何か創りたいって顔してるし」
「……!」
今度こそ、心臓が脳天まで跳ね上がった。しかし今回は驚きのためではなかった。自分の潜在意識が、ようやく見つけてもらえたことを喜んでいるようだった。
「じゃ、頑張ってね。困ったら連絡して」
そう言いながら自分の電話番号を紙に書き留め、速水は帰っていった。
残された祭里は、なんだか疲れたような、満ち足りたような気分になって、倒れるようにパイプ椅子に座り込んだ。
──何か創りたいって顔してるし。
顔に出てしまっていただろうか。こんな気持ちはずいぶん久しぶりだ。
(温かい気持ちのバトン。心のリレー……)
「……あれ?」
祭里は速水の言葉と、自分の脳裡に浮かんだ言葉を反芻しているうちに、彼の言葉に引っかかりを覚えた。
──委員会に入るかどうかは希望制だからね。
続いて祭里は担任教諭の安斎が言っていたことを思い返す。
──所属委員会、勝手に決めちゃってごめんね。みんな「名前がまつりだしピッタリじゃーん」って言って聞かなくて。
(あれ……。なんか、噛み合わなくない?)
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