逃げた魚が愛した夫

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逃げた魚が愛した夫

 マクエル・トロウェルはため息を噛み殺して、カップをソーサーに静かに置いた。気が進まない見合いの場で、相手を待つ所在なさに深い赤茶の紅茶の波紋を見つめ、どうするべきかと思案する。  持ち込まれた縁談の相手は、アスティ・フラメル侯爵令嬢。病がちで社交に疎いマクエルでさえ、その名前は知っていた。  社交界で色んな意味で有名なランコム・タリスターとシスル・フォワード。その二人は先だっての夜会で壮絶な修羅場を演じたらしい。これからマクエルが見合いする、アスティを取り合って。  名門フラメル侯爵家の令嬢らしからぬ噂は千里を駆けて、病弱で夜会には滅多に参加しないマクエルの耳にまで届いた。そしてそれが縁談を持ち込まれた理由だと容易に推測できた。  侯爵家ではあるものの、特に権勢を誇る家門でもないトロウェル家。唯一の嫡子であるマクエルは病弱という()()がある。  一方フラメル家は河川事業も好調。爵位は同じでも家格が釣り合うとは言えない。そんな名門家の令嬢の醜聞は、婚姻に暗い影を落としたはずだ。同格か格上は醜聞を嫌うだろうし、格下家門にも醜聞を理由に足元を見られかねない。  それならば()()()()()()()()()()。縁談が組まれた理由はそんなところだろう。  理由は明白で合理的とも言える縁談。ただ、マクエルが思案しているのはそれが理由ではなかった。 「……お待たせしました。初めまして、アスティ・フラメルです」  静かな柔らかな声に、マクエルは顔を上げる。目が合ったアスティは声の印象と同じく、穏やかで大人しそうな女性だった。  社交界で派手に遊ぶ二人から、熱烈な求婚を受けているようにはとても見えない。 「初めまして、マクエル・トロウェルです。どうぞおかけになってください」  笑みを浮かべて挨拶を返したマクエルにアスティは一瞬目を見張り、ホッとしたように小さく笑みを見せた。  それがきっかけとなり、社交辞令から入った会話も思った以上に弾む。愛想ではなく笑みが浮かんだ。波長が合う。そんな風に感じた。 「……あの、マクエル様」  弾む会話の隙間で、アスティが声を改める。顔を上げたマクエルは、アスティの表情に内心ため息を噛み殺した。想像以上に楽しい時間はもうすぐ終わりらしい。 「私について流れている噂をお聞き及びですよね……?」 「……はい。いくつかは聞き及んでいます」  俯いて微かに震えるアスティの声に、マクエルは頷いた。 「……全部嘘じゃないんです……私は()()()()()()()()()に恋をしていました。望んで情けをかけていただきました。タリスター卿との噂も本当です。お酒に酔って私がご迷惑をおかけしました。誰でもいいから縋りたい。そんな気持ちがなかったとは言えません……だから……」 「……お慕いされていたのでしょう?」  マクエルは眉尻を下げながら思わず苦笑を浮かべた。  そう彼女は社交界でも人気の精悍な美男子、シスルに恋をしていた。失恋の痛手に耐えかねて縋った先も、同じく社交界で人気の美形のランコム。  それに比べてマクエルはごく平凡。冴えない容姿の上に、持病を持っている。  美貌の二人との恋の後に自分との婚姻は、悪夢にも思えるかもしれない。断ってあげたいが病弱の身。本音は瑕疵があろうが一刻も早く結婚をしたい。()()()()()()にも。  実際に会って話したアスティは、穏やかで慎まやか。共に過ごす時間は心地よかった。その時間が終わってしまうのを惜しく感じるほどに。 「……貴女は正直で勇敢です。曖昧にしておくこともできたのに、正直に話してくださった」 「……勇、敢……?」  涙目で震えるアスティに、マクエルは励ますように笑み向けた。 「正直に話してくれてありがとう。勇気が必要でしたよね。彼をとても好きだった貴女が、すぐに僕を好きになるのは難しいと思います。ですが、信頼と親愛を育てていくことはできると思うんです。僕は貴女の人柄をとても好ましく思っています」  印象通り穏やかで慎まやかだろう彼女が、どれだけ振り絞って言葉にしただろうか。今も。シスルに対しても。  マクエルが屋敷にこもってぼんやり時を過ごしている間に、目の前の華奢で大人しいアスティは恋をして、手に入れようと努力して、そして破れた。  まだその傷も癒えていないだろうに、マクエルに対して誠実であろうとしてくれた。  マクエルはスッと息を吸い込み、真っ直ぐにアスティを見つめた。アスティを見習って、勇気を出すために。 「それほど彼を好きだった気持ちを、すぐに変えるのは難しいとわかっています。でも僕は貴女となら信頼と親愛を重ねていけると思えた。どうか僕との結婚を前向きに考えてくれませんか? ゆっくりと夫婦になっていきたいんです」 「マク、エル様……」  ボロリと零れた涙に、アスティは顔を覆い俯いた。マクエルは静かに立ち上がり、そっと震える肩に触れ無言で寄り添った。  心に溜め込んだ澱を洗い流すように涙を流したアスティは、その涙が収まるとマクエルに向き合い頷いてくれた。 「……よろしくお願いします。マクエル様……」  その日以来マクエルは、アスティと連れ立って時折出かけるようになった。穏やかに語らう時間を過ごすうちに、アスティの笑みも少しずつ増えていく。  瞳から怯えが消え、尊敬が宿るようになった頃。マクエルはアスティに正式に求婚した。  その心にあるのが情熱に燃え上がる恋心ではなくても、穏やかで確かな信頼と親愛が宿っている。  迷いなく頷いてくれたアスティとマクエルは、出会いから半年後に婚姻を結んだ。 ※※※※※  灯りを落とした初夜の寝室。寝台に並んで座る隣のアスティに、マクエルは逡巡しそっと問いかけた。 「……アスティ。今日の結婚式でフォワード卿を見かけた。そ、その……後悔はしてないかい? もし……」 「マクエル様。いいえ、マック。今ここでまたあの提案をしようと考えていますか?」 「あ、いや……だけど、僕は……」  きっと君を残して先に逝く。その先の言葉を濁して、マクエルは俯いた。  アスティと共に過ごした穏やかな時間はまだ半年ほど。でもそれだけで十分だった。波長が合うと初対面で感じた直感は間違ってはいなかった。  知るほどに誠実で穏やかな性質と芯の通った淑やかさは好ましく、親愛はゆっくりと深まり今は愛と呼べるものになっている。  文字通り勇敢に身体ごと飛び込むような恋をしていたアスティ。きっとまだ忘れられてはいないだろう。  夜会の騒動から一変、シスルはアスティとの再婚約に必死だった。マクエルから見ても悲壮なほど真剣に。  だからマクエルはプロポーズの時、ある提案をしていた。マクエルの子供を産んでくれた後は、心のままに生きてくれていいと。  きっと残して逝ってしまう。未亡人となったその先も、アスティは生きていかねばならない。大切なアスティが、少しでも幸せでいられるように。そう考えての提案だった。その提案はアスティを初めて怒らせた。  それでも最後の一線を前にマクエルは、その問いをもう一度口にせずにはいられなかった。どこまで愛していいか。どこまで求めていいか。  今のマクエルには砕けると分かっていても、果敢に初恋に立ち向かったアスティの想いが、自分の気持ちとして理解できるようになったから。  マクエルの提案に、アスティは怒りはしなかった。ただ悲しそうに俯いた。 「私となら信頼と親愛を重ねていける……マックはそう言ってくれたのに。あれは嘘でしたか?」 「違うよ! こんな僕のところにお嫁に来てくれたんだ! 心から大切にするよ! ただ僕は……」 「私も信頼と親愛を重ねていきたいと思ったんです。息をするのも怖いと感じる恋に戻るのではなく、隣を歩いて見つめあっていける関係をマックと築いていきたいと。どうなるか分からない先の未来を言い訳に、信頼と親愛など重ねようもないことを、マックは私にしろと言うのですか?」 「アスティ……」 「確かに私は心からシスルを愛していました。でもいつも一方通行でずっと辛かった。できることなら終わりにしたかった。やっと終われて辛かった私に、きちんと向き合ってくれたのはマック、貴方です。穏やかに話し合える関係の優しさを、それが欲しかったのだと教えてくれたのは貴方なんです」  俯いていたアスティが、顔を上げてマクエルを見上げた。その瞳が潤みながら祈るように揺れているのを見て、マクエルは自分の臆病さに唇を噛んだ。 「マック、私はもう選んだんです。共に生きると約束した私を信じてくれませんか? 私を一人にするからと、そんな提案をするなら一人にしないでくれませんか?」 「……そうだね。君の言うとおりだ。ごめん、僕が臆病者だった。ごめん、アスティ……」  マクエルの弱気が傷ついても乗り越え、自らの道を選び取ったアスティの覚悟を踏み躙った。気遣ったつもりの言葉が、自分との未来を望んでくれたアスティを侮辱した。 「大切にするよ……アスティ」  マクエルを選んでくれたアスティを。アスティは自分と共に、信頼と親愛を重ねることを選び取ってくれた。  何一つ恥じることなく誠実であろう。アスティの覚悟に報いるためにも。生涯をアスティと共に。卑屈さを捨て勇敢で誠実なアスティに、相応しい自分になろう。  覚悟と決意を胸にマクエルは、そっとアスティの頬に手を伸ばす。 「アスティ・()()()()()。どうか僕だけの妻としてそばにいてください……」 「……はい……はい、旦那様……」  涙で潤んだ瞳をとろりと閉じたアスティの唇に、マクエルの唇が重なった。 ※※※※※  いつかその日を迎えるとしても義務的なものになるだろうと、マクエルは思っていた。  耐え難いまでの劣情を感じることはなく、激情より理性が常に優っていた。  酒と女で身を持ち崩す者がいることが、いつも不思議だと感じていたほどに、生身であることを辛く思ったことはなかった。  だから初夜の寝台の上、獣のように妻を犯している自分に気づけないほど、夢中になっていることが信じられなかった。  華々しく浮き名を流したあの二人が、ああまでしてアスティを求めた理由を、今マクエルははっきりと理解した。 「アスティ……! アスティ……! あぁ……!」 「ああっ! マック……あっあっあっ……んぁああ……」  激しい抽送にベッドが軋み、アスティの切な気な声が翻る。アスティと繋がる前までは確かに思っていた。大切に抱こうと。経験のない自分ができるのはそれだけで、純潔ではないからと大切にしない理由にはならない。不快ではないように、痛くないように、辛くないように。  もどかしいほど優しく丁寧なマクエルの愛撫に、アスティは時々声を掠れさせながら応えてくれていた。  穏やかに積み上げていく官能に、微笑み合いながら見つめあったままアスティと繋がったところまでは覚えている。 「あぁぁ……アスティ……いい……いい……」 「あっ……マック……あぁぁ……!」  ねっとりと熱く潤んで絡みつく媚肉。媚びて吸い付いて奥へと誘う膣壁。それに逆らって隘路を逆撫でると、逃すまいと絡んだ粘膜に舐られる。  律動のたびに熱く猛った己の楔に、不規則なアスティの凹凸が鮮烈な快楽を与えてくる。脆弱な理性を溶かして、快楽に忠実な本能だけが取り残されている。  華奢なアスティの身体を気遣う余裕もなく、抜いても挿しても凄絶な快楽を貪るのを止められない。ドロドロと脳が溶け、全身が粟立つような快楽に、ただ腰を振らされる。 「あ……マック……もう……もう……」 「ぐぁ! あぁ……だめ、だ……アスティ! アスティ!」  アスティの声に切実さが滲み、一際きつく締め付けられる。マクエルを根本まで飲み込んだソコが、歓喜するように戦慄き小刻みに痙攣する。 「ああぁぁーーー!」  悲鳴にも似た嬌声を上げ、絶頂したアスティの中が容赦なく咥え込んだマクエルから搾り取る。  強制されるようにマクエルがアスティの中に絞り上げられ、勢いよく放たれた飛沫が断続的にマクエルの腹筋を震わせた。  貪欲に蠢くアスティの膣壁が、最後の一滴まで吸い上げるように放出を促す。 「ああ……アスティ! アスティ……!」  頂点を極めた快楽は意識が白濁させ、充足感ではなく渇望を連れてくる。緩やかに腰を穿たされながら、マクエルは組み敷いたアスティに口付けしながら、もう力を取り戻し始めた楔を打ち込むのを止められなかった。 「待って……待って……マック……私、まだ……」  アスティの懇願の声にも止められない渇望に急かされながら、マクエルは病身には毒なほどアスティの身体を貪った。  マクエルが思っても見ないほど熱かった初夜の一夜は、二人の間に愛の結晶をもたらした。 ※※※※※ 「またすぐ君が欲しくなる。こんなふうになるなんて思わなかったよ」  たびたび歯止めが効かなくなる自分を恥じながら、マクエルはぐったりとベッドに沈むアスティに口付けを落とす。 「……マックなら……いいの……私の旦那様だもの……」  もう指一本動かせない風情なのに、そんなふうに健気に振る舞うアスティに、マクエルは奥歯を噛み締めた。 「アスティ……やめてくれよ……今日はなんとか堪えられたんだから……」  視線を逸らして顔を赤くしたマクエルに、アスティは小さく笑いを零した。  ベッドから立ち上がったマクエルは、水差しを手に取ると水を注ぎ入れアスティに差し出した。アスティが身体を起こすのを支えながら、水を飲むその姿に瞳を細める。 「眠る前にお姫様の様子を見てくるよ。孤児院でずいぶんはしゃいでいたから」 「ふふふ、きっとぐっすり眠っているわ。すごく楽しそうだったから」 「孤児院の子ども達に僕の奥様は大人気だから、お姫様も歓迎してもらえた」 「私が受け入れてもらえたのは、私の旦那様が何年も誠実に管理をしていたからだわ。そんなあなたの娘だからリリアナにもたくさんの友達ができたの。全部あなたのおか、げよ……」  トロトロと瞳を閉じながら、最後はため息のように囁いてアスティは眠りに落ちた。小さく笑みを浮かべたような寝顔に、マクエルは幸福感に胸が詰まるのを感じた。  結婚から七年。変わらず慎ましく優しい妻に、愛しさはただただ降り積もるばかりだった。 「愛しているよ、アスティ……」  起こさないよう静かに口付けて、眠るアスティに寝具を引き寄せる。マクエルはそっと立ち上がると、リリアナの部屋へと歩き出した。  すやすやと安らかな寝息を立てる一人娘のリリアナは、お気に入りのくまのぬいぐるみを抱きしめ、ぐっすりと眠っていた。 「僕のかわいいお姫様、今日は楽しかったね」  そっとリリアナのキスを落とす。くすぐったそうに身を捩ったリリアナが、くまを抱き寄せると安心したようにまた規則正しく寝息を立てた。愛らしい寝顔に目頭が熱くなった。  マクエルは万が一のために切実に、トロウェル家の血を引く子どもを望んでいた。それがどれだけ愚かしい考えだったか、リリアナを見るたび思い知らされる。  自分によく似ていると言われるたびに誇らしく、嬉しそうに駆け寄ってくる笑顔に胸が詰まる。諦観で求めていた子どもは、生まれた瞬間からマクエルの生きる意味になった。リリアナの成長を見守り、手助けしてやりたい。愛する妻と一緒に。 「……おやすみ、リリ。いい夢を……」  もう一度キスをして、マクエルは部屋を出た。扉を閉めた瞬間せり上がってきた嘔吐感に、マクエルは激しく咳き込んだ。震えながら落とした視線が血まみれの手のひらを捉える。 「ああ……」  天を仰いで静かに目を閉じる。  いつ終わっても悔いはないと思っていた頃の自分は、もう思い出せない。どうしてそんなふうに思えていたのか。流れていく日常は温かで、愛しい妻と娘のいる日々は幸せで。決めていたはずの覚悟は、今はもうどこにも見当たらない。  ぐほぐほと嫌な咳は立て続けに出て、止まらなくなった。吐き出されるばかりの息に肺がちぎれるように痛み出す。  がくがくと力の入らなくなった痙攣する足を動かして、マクエルは壁伝いに必死に歩く。  倒れた自分をリリアナが発見することだけは、どうしても避けたかった。 (アスティ……)  懸命にリリアナの部屋から遠ざかりながら、かすみ始めた意識の奥でマクエルは愛しい妻の名を呼んだ。 ※※※※※  ふわりと広がるフレアのスカートを摘み、ぎこちなく折り曲げた身体を勢いよく上げたリリアナは、キラキラと輝く瞳をマクエルに向けた。  マクエルは思わず笑みをこぼしながら、優しく細めた瞳でリリアナを見つめるアスティと微笑みを交わした。   「さすがお父様のお姫様だね。とても可愛らしいカーテンシーだ」  とても愛らしいが優雅さはまだ足りない。それでもリリアナは得意満面の笑みでマクエルのベッドに飛びついた。 「そうでしょう? シーバンス夫人にも褒められたのよ! お母様のような立派な淑女になるから、お父様は早く元気になって! デビュタントのダンスの練習をしないと!」 「デビュタントはまだまだ先だろう?」 「だってお母様が言ってたわ! お父様はあんまりダンスが得意じゃないって。だからたくさん練習しなきゃ! だから……」  コンコンと控えめな叩音が響いて、リリアナは悲しそうに口を閉じた。  あの夜マクエルは倒れてから、ベッドから出られなくなった。授業の合間にリリアナはマクエルの部屋に来て、授業の進捗を話して聞かせる。その傍には常にアスティが寄り添っていた。  離れ難い様子のリリアナを抱き寄せ、マクエルは額にキスをする。 「次は歴史の授業だったね。終わったらまたお父様に会いにきて、どんな内容だったか教えてくれるかい?」 「……うん! リリが教えてあげるね」 「楽しみにしているよ」  リリアナはマクエルとアスティを振り返りながら、迎えにきた侍女と一緒に部屋を出ていく。  リリアナがいなくなり、静かになってしまった部屋。ふと目に止まった花瓶の花に、思わず笑みがこぼれた。 「今日はガーベラだね」 「ええ、花言葉は覚えている?」 「もちろん。希望・前進だ。リリアナが生まれた日に君に贈った花だからね」 「ふふふ。リリにはまだデビュタントは早そうだわ。さっきのカーテンシーは元気が良すぎたもの」 「ああ、まだもう少し僕たちだけのお姫様でいてくれそうだ。でもとても可愛かったね」  二人になった室内でリリアナの成長を喜び合いながら、アスティとマクエルは静かに言葉と笑みを交わし合う。  マクエルが倒れてから、アスティは献身的に支えてくれていた。  一緒に見た風景、読んだ本、贈りあった花。共に過ごしてきた年月をゆっくりと振り返るような時間は、穏やかで幸福に満ちている。残された時間を惜しむように流れていく静かな時間。  不意にマクエルが咳き込んで、胸の痛みにくの字に身体を折り曲げた。立ち上がったアスティが、マクエルの背を祈るように撫でる。  ゴホッと一際強く咳き込んだ途端に、寝具に血が吐き出された。顔色をなくしたアスティが、ベッド脇の紐を強く引き緊急を知らせる。 「……ねぇ、アスティ。僕は君を幸せにできたかな?」 「何を……! マック……今は話さないで!!」 「アスティ、僕はいい夫でいい父であれただろうか?」  激しく咳き込む合間にマクエルは必死に言葉を紡いだ。  妻と娘が笑みを浮かべる日常は、ただ幸せでただ愛しくて。なんの努力もする間もなくあっという間に過ぎてしまった。  幸せにしようとした妻に幸せにしてもらい、命尽きる前の義務だった娘が、生きる気力を与えてくれる日々。マクエルはとても幸福だった歳月。 「アスティ、君に結婚したことを後悔させない夫であれただろうか?」 「マック……マック……あなた以上の夫も父親もどこにもいない。一度だって後悔したことなんてない。誰よりも幸せよ……だからお願い……!」 「良かった、愛してるよ。アスティ」  祈るようにマクエルの手を握り、アスティが涙をこぼす。マクエルは少しだけ笑みを浮かべて、寝具を震える手で押しやった。  察したアスティが急いで血のついた掛け具を剥ぐと、医師と侍女に連れられたリリアナが室内に飛び込んできた。  マクエルは容態を見ようとする医師の手を押しやって、リリアナに震える手を伸ばした。 「お父様……!」  真っ青になってマクエルに駆け寄ったリリアナを、力の入らない腕で抱きしめる。 「リリ。僕の宝物。お母様を頼んだよ」 「やだ! お父様! やだ! デビュタントではリリと踊ってくれるんでしょ? やだぁ……!」  ごめんね。リリ。泣き出したリリアナを慰めたくても、もう声は出なかった。アスティがリリアナを抱きしめ、マクエルの手をしっかりと握る。握り合った手にアスティの涙がポタポタと落ちた。 (泣かないで、アスティ……)  痛みを乗り越え、しなやかな強さを身につけたアスティを愛していた。尊敬していた。マクエルを選んでくれた。幸せにしてくれた。リリアナに出会わせてくれた。  マクエルの限られていた時間を、ただただ愛おしく幸福に満ちた日々にしてくれたアスティ。  できることならもう少し生きていたかった。それでも残していく申し訳なさはあっても、後悔は何一つない。幸せだったと言ってくれたから。   (どうか、アスティ……幸せに……)  愛しい妻と娘に見守られ、マクエルはゆっくりと瞳を閉じた。  享年三十三歳。堅実に領地を守り誠実で慈悲深い人柄を慕われた、トロウェル家当主のまだ若すぎる死を悼み葬儀には多くの領民が参列した。  一人息子を喪った前当主夫妻の嘆きは大きく、次期トロウェル家当主のリリアナをめぐって溝がゆっくりと深まっていく。  マクエルの切実な最後の願いは、彼を慕う者たちの悲しみの深さから、叶えられるまで長い時間が必要になった。 ※※※※※ ここまでお付き合いありがとうございました。リクエストいただき、こっそり追加いたしました。 そしてもう一つ!表紙を担当してくださった猫倉ありす先生のコミカライズデビュー作が明日から公開になります。Twitterにて告知いたしますので、よろしければチェックしてみてください!  ここまでお付き合いありがとうございました    
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