もう一人のクズ男

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もう一人のクズ男

 人目があると見栄を張り、自分の価値を高めようと駆け引きをする。男女の仲はそれも含めて楽しむものだが、今日はその手間が面倒だった。どのみち迎える結末はいつも同じだ。  夜会で賑わう会場を離れ、人気の少ない中庭を目指す。わざわざ会場から離れた場所に来る理由は多くない。手軽な相手を探すためか、何かしらの事情があるか。  早速見つけた人影は後者のようだった。蹲って肩を震わせる華奢な背中に、ランコムは足を止めた。  「ねえ、大丈夫?」  「……っ!?あっ…いえ…慣れないお酒に酔ってしまって……」  驚いたように顔上げ、とっさに顔を俯けた目元は濡れていた。  (ふーん)  大人しく気弱そう。普段から酒を飲むようには見えない。壁の花でいることを好むようなタイプの若い女が、飲めない酒を飲んで人目を避けて泣いている。理由は聞かなくても推測可能で、その対応方法は熟知している。ランコムはにっこりと微笑みかけた。  「俺はランコム。君の名前は?」  「あっ!えっ?……アスティです……」  「アスティね!おいで、こっちだよ。ちゃんと休んだほうがいい。」  「……えっ!あの!!」  ぐいっと腕を引き寄せると、アスティはよろけながら立ち上がった。少々強引に先導すると、戸惑ったまま簡単に連れ出されていく。世慣れない押しに困惑する様子にランコムはほくそ笑んだ。  ランコムの好みは甘えられる余裕のある年上の女。その余裕をベッドではぎ取るのが非常に楽しい。アスティに余裕など全くないが、若い女に珍しい大人しそうな気質はランコムの好みだった。  「水、飲んで。」  「……ありがとうございます。」  連れ込んだ部屋で腰かけたアスティが、差し出した水を素直に飲み下す。丁寧な仕草に上位貴族の令嬢としての教育が垣間見える。穏やかで静かな佇まいは、思いのほかランコムの気を引いた。  「かなしいことでもあったの?良かったら話を聞くけど?」  優しげな微笑みを装備して、アスティの涙の跡を指でなぞる。言葉の代わりに涙が溢れるくらいには、吐き出したいものがあるはず。それはいつまでも心に留めておけない。アルコールの助けがある今ならなおさらだ。  初めは口ごもっていたアスティも、やがてぽつりぽつりと話し始める。ランコムは熱心に頷いて見せた。  長年の婚約を白紙にしたこと。最後に交換条件として抱かれたこと。まだ相手を忘れられないこと。だんだんと声を詰まらせ始めるアスティに、時々相槌を打ちながらランコムは仕上げのタイミングを図った。  「辛かったね。全部忘れてしまえばいいよ。大丈夫、俺が慰めてあげるから。」  驚いたように見開いたアスティの瞳に、ランコムが笑みを浮かべてゆっくりと近づいた。衝撃で固まったままのアスティの唇をするりと舐めとる。いつもの方法で、いつもの手順を踏む。そういつもと同じ結末を迎えるだけだ。  泣きながら誰かへの愛を語っていても、豊富な経験を匂わせる余裕な態度でいたとしても。この夜が明ければランコムを潤んだ目で見上げる。次の約束を欲しがる。目の前でシスルとの決別に、涙しているアスティも、そうなるとランコムはこの時は疑うことすらしていなかった。  「………はぁ……ああっ……快い……快い……」  もう何度搾られたか分からない。引きずり込まれた快楽が、ランコムをアスティの中に居座らせ続けている。何度も放った白濁は、肚の中で撹拌されて、抜き差しするたびに泡立って腿を伝って零れ落ちていった。  「……もう、……無理、です……あぁ……お願い……抜いて……」  「無理、だ……ここが、離してくれない……ああっ!……快い……快い……」  熱く潤んだ粘膜が容赦なくランコムを締め付ける。ねっとりと奥へと引きずり込むように、うねり吸い付くアスティの中。その度に熱く潤んで不規則に隆起した肉壁に擦りつけることになり、その度に鮮烈な快楽に痺れる。  「ああっ……やぁ!いやぁ……」  「あぁ……アスティ……すごい……すごいよ……」  抵抗するように引き抜けば、逃さないと絡みつき根元から蛇腹の肉壁の快楽が穂先へと駆け抜けていく。脳を溶かされる快楽に、視界さえも怪しくなる。体中の血液が沸騰するかのように、熱が膨れ上がった。  「ああっ!いいっ!アスティ!出る!また出る!!ああっ!いいっ!いいっ!アスティ!ああっ!!」  「ああっ!ああっ!だめ……だめ……いやぁ……ああっ!ああっああああーーー!!」  ギチギチに締め付けられたランコムが体積を増した。すでにぐちゃぐちゃになるほど犯した肉壁に、荒れ狂う熱の出口を求めて、本能的に己を押し付け擦り立てる。  最奥で破裂するかのように快楽が弾け、勢いよく飛び出ていく。視界が歪み、白むほどの官能。ぞくぞくと腰を伝って駆け抜ける快楽は、アスティの最奥が舌舐めずる様に、穂先に吸い付くせいでいつまでも止まない。  (ああ……だめだ、おかしくなる……)  煮えたぎった血液が休みなくランコムを猛らせる。快楽の終わりは体力の限界だった。瞼を閉じる寸前に、貪り尽くしたアスティの横顔が見えた。底の抜けた桶のようだった心が、なみなみと何かに満たされた気がして、ランコムはゆっくりと目を閉じた。  ランコムの予想を裏切った夜は、明けてもランコムの知る結末を迎えることはなかった。  「……ごめんなさい……こんなつもりでは……」  ランコムは泣き出しそうな目の前のアスティを呆然と見つめた。慌てふためいて服を身に着け、一刻も早く立ち去ろうとしている。ランコムが予想もしていなかった反応。  「え?アスティ……?」  アスティはうっとりと頬を染めてランコムを見上げることはなかった。ランコムの気持ちを知りたがることもせず、ただ狼狽えてこの場を逃げ出そうとしている。視線を避けるように、俯いている表情も真っ青だ。  「……ご迷惑をおかけしました。こんな……本当に……すいません……」  「え?どうしたの…?まさか後悔してる……?」  青褪めたアスティの顔に苦いものが走ったのが見えて、ランコムは衝撃を受けた。愛を語っていたことなど忘れたように、ランコムにすり寄る。次の約束をするまでベッドを出たがらない。そして決定的な言葉を欲しがる。どうしてかそうならない。  「……これで終わりにする気じゃないよね?」  「……」  「アスティ?」  「……ごめんなさい。昨日は酔ってしまっていて……」  その指摘に痛そうにアスティは顔を顰めた。ランコムは愕然として、アスティを見つめる。まるで一緒に過ごした夜が、汚点とでも言うようなアスティの態度。ランコムは特別な言葉を用意していた。それを喜んで受け取るアスティしか想像していなかった。  「待って、アスティ!」  「……親切に介抱していただいたのに、こんなことになって……本当にごめんなさい……」    頭を下げて逃げるように部屋を出ていったアスティに、ランコムは呆然とした。くしゃりと乱れた前髪を握りしめ、混乱した思考を落ち着けようと努力する。  (……は?逃げられた?なんで……?)  いつもとは違う結末。いつもとは違う夜。夢中になってアスティを掻き抱いた。アスティの反応をあまり覚えていないほど、理性を飛ばし興奮と快楽に支配されていた。  (俺だけ……?)  じわじわと湧き上がる感情を否定するように頭を振った。敗北感にも似た屈辱に、ランコムは唇をかみしめる。    「……ありえねぇだろ……」  なぜか鋭く痛みだした心臓に拳を当てる。満たされていた何かが抜け落ちて、前よりずっと虚ろになったかのような心細さが広がる。  何もかも根こそぎ奪い取られたような空虚さにランコムは身震いした。誰にも言ったことのない言葉をランコムは用意していた。それなのに、聞きもせず去っていったアスティ。  「……このまま終わりとか、許さないから……」    逃げるようにアスティが出て行った扉を睨みつけて呟いた。  この日を境に、ランコムは付き合いのあった女と手を切った。女はそういうものを喜び、欲しがると知っていた。アスティなら性格上、なおさらそうすることを喜ぶはず。  いつも選ぶ側。常に選ばれてきた自分。そんな自分がアスティを選び、特別扱いすれば簡単に手に入ると思っていた。  まるでらしくない行動に勤しみながら、ランコムは全く気付いていなかった。自分こそが他の女がどうでもよくなっていることに。求愛に忙しくて、そこまでしてどうして欲しいのかは考えなかった。  だがそうして差し出した求愛は、いつまでたっても受け入れらなかった。ランコムの苛立ちは募り、目の前で強引にアスティを連れ出したシスルに、その苛立ちをそのままぶつける。壮絶に殴り合っても抱えた苛立ちは収まることはなかった。  結局ランコムはアスティが泣き出しそうな顔が何度もよぎる理由と向き合うことよりも、傷ついたプライドを自分のやり方で必死に立て直すことを選んだ。 ※※※※※    3年が経った。特有の気怠い空気に満たされた、男と女の匂いが漂う寝台。ぐったりとシーツに沈んだ女に、ランコムは無感情に言い放つ。  「……もう帰れよ。」  「……何それ!?」    気分を害して声を上げた女に、ランコムは服を放った。そのまま背中を向けて、さっさと着替えを始める。  「ちょっと!!」  振り返りもしないランコムに女が唇を震わせる。心底女遊びを楽しんできた、以前のランコムなら絶対にしなかったこと。  「………最っっ低!!もう二度と会わないから!!」  服を身につけた女は吐き捨てて乱暴に扉を閉めて出ていった。足音が消えるとランコムは手近な椅子に座り込み、細く息を吐いた。両手を額に当てて、そのままうなだれる。  「………っ!」  思わず呟きそうになった名前を寸でで噛み殺す。何もかもうまくいかない。胸を捻られるような痛みに歯を食いしばる。苛立ちがずっと消えない。  ランコムの頭に何度もよみがえる光景。誰といても、何をしていても。それから必死に目を背けることに、ランコムは多大な労力を費やしていた。  振り払うことに必死で、常に湛えていた余裕をなくしていた。漠然とした万能感は消えて、湧き上がる敗北感に似た何かを懸命に押さえつけることに夢中になっていた。ランコムはその正体からもうずっと必死に目を反らし続けていた。  当然そんなランコムの評判は、地に落ちていく。《女好きでもランコムは優しく紳士的。強引さも気まぐれも魅力的》男はともかく、そんな風にランコムを評していた女達は減っていった。他に割く余力のないランコムは、常に追い詰められ苛立ち、そのせいで女たちの庇いだてがなくなり、保たれていた評判は転がるように落ち込んだ。  出席を厳命された夜会に向かいながら、いらついたまま部屋を後にする。もう何もかも放り捨てたくなっていた。  投げやりな気分のまま辿り着いた夜会で、アスティの姿を見つけたランコムは、衝動的にそのまま会場を飛び出した。  「……ふざけんなっ!」  3年もの間燻っている怒りは一気に燃え上がり、ランコムは中庭のベンチを蹴飛ばした。  アスティがいた。隣の夫に微笑みかけていた。信頼がこもる瞳が見つめ合いながら、照れたように微笑んでいた。自分を振って選んだ男は冴えない容姿に、愚直が過ぎて愚鈍そうな奴。  幸せそうに笑ったアスティが蘇り、ランコムはもう一度ベンチを蹴りつける。まるで見せつけるかのような光景に、身の内から煮え立つような感情がこみ上げる。  「……ランコム?」  反射的に振り返った先に、吐き気がする顔を見つけランコムは盛大に顔を顰めた。腹立たしいことにシスルも同じだけ顔を歪めている。むかつく。  シスルとはかつて、何かと引き合いに出され比較されてきた。主に容姿を。天使と形容される自分と、精悍な彫刻と言われるシスル。もともと気に食わなかったが、アスティを巡って殴り合ってからは、会いたくない奴筆頭だった。  だが、この時ばかりはこの場にいることが妙に納得できる相手でもあった。こいつはアスティの価値を知っている。  「俺の女になるはずだったのに!なんで俺を選ばなかった!!あんなイモ臭い男と結婚するなんて!」    奇妙な連帯感がランコムについ言葉を吐きださせた。だが、同じ立場のはずのシスルは鼻白んだ顔をした。その嫌悪が混じる呆れ顔に、ランコムは裏切られたような気がしてカッと頭に血が上る。  どこか達観したようなシスルの態度。崩してやりたくてわざと煽り立てる。それでもシスルはただ憐れむような目をしただけだった。  「……お前、真面目に働いたほうがいいぞ。」  思わず言葉を失う。クズが言っていい言葉ではない。できる限りの譲歩をしたとしても、シスルにはだけは言われたくない。まるで同類にするなとでも言わんばかりの態度に、ランコムはシスルを睨みつけた。  「クズが不能になって、ちょっと働いた。元々がクズだからまともに見えてるってだけのくせに。」  「……まあ、その通りだな。じゃあな。」  怒りに任せて怒鳴ったランコムを相手にせず、シスルは後ろ手を振って去っていった。その後ろ姿をしばらく睨みつけていたが、ランコムはベンチに座り込んだ。不意に襲ってきた取り残されたような感覚に、額を両手で覆い溢れてこようとしているものを必死にこらえる。  「……じゃあ、どうすればよかったんだよ……」  3年もの間、必死に目を背けていたものが、なんの覚悟もなく突き付けられる。きっとあの憐れむようなシスルの瞳を見たせいだ。  「……アスティ……」  忘れたふりをしていた名前が弱々しく零れ落ちる。アスティに選ばれた男の姿がよみがえる。冴えない容姿に、愚直なほど誠実で愚鈍なほど優しい男。軽薄で気ままな自分とは正反対の男。  「それしかなかったんだ……」  恋よりも先に快楽を知った。快楽を共にすることでしか、関係を築いてこなかった。それしか知らなかった。  人目を引く容姿と、女を夢中にさせる身体。それが自分が持っていた全てだった。あの朝、笑顔のないアスティを見て、そんなものが役に立たないと気付いても、それを認めたくなかった。認めてしまったら諦めるしかなかった。ランコムにはそれしかなかったから。  「アスティ……!!」  夫の隣で幸せそうに笑うアスティ。ずっと涙に瞳を潤ませたアスティが離れなかった。本当は自分がアスティを笑顔にしたかった。  もう目を逸らし続けることはできない。なすすべなく快楽と興奮に溺れ、あの夜に何もかも根こそぎアスティに搾り取られた。心までも。奪われたのは自分だけで、奪うことはできなかった。アスティが求めていたものを、自分は何一つ持ち得ていなかった。  3年もの間、目を逸らし続けた答えに向き合い、その報われなさにこらえていたものは堰を切ったようにあふれ出した。 ※※※※※  あの夜から10年、ランコムは29歳になっていた。久しぶりに夜会に姿を見せたランコムに、落ち着かない視線が注がれている。その視線を完全に無視して、ランコムは会場を出ようとする人影を追って抜け出した。  「………おいっ!シスル!」  「………なんだよ……何か用か?」  振り返ったシスルは、浮かべていた愛想笑いを即座に引っ込めた。ムカつく。キツく睨みつけたランコムに、シスルはふふんと鼻を鳴らしす。    「……相変わらずだな……!!」  「いいから何の用だよ?運輸路のことならフラメルの()()()にどうぞ。ランコム・タリスター卿?」  馬鹿にしたように笑みを浮かべ、すでに用件は見透かしているような翡翠の瞳は、あからさまに勝ち誇っている。わかっていてのその発言に、ランコムの苛立ちが募った。本当に心底ムカつく。  「運輸路なんかどうでもいい。」  「ふーん。貿易業で随分儲けてるらしいって聞いたぞ?ならうちの運輸路は必須だと思うけど?」  「黙れよ!お前に仕事の話を持ってくるわけないだろ!」  仕事なら不愉快極まりないシスルに言うわけがない。言われなくても最初からフラメル侯爵に会いに行く。避けていた夜会に参加したのは、領地に引きこもっているシスルがくるから。引き留めたのはどうしても一言言ってやらなければ気が済まないからだ。  「じゃあ、何の用だよ?ああ、もしかして祝いに来てくれたとか?」  「祝う?馬鹿か?頭に花でも咲かせてんの?お前にあっさり騙されてるやつらと一緒にするな!罵りにきてやったんだよ。」  「はっ!そりゃどうも。」  ランコムの軽蔑と嫌悪の眼差しを、シスルは余裕の笑みで受け流した。  「クズはどうやってもクズだな。妊娠を理由にアスティに結婚を了承させるとか、いかにもお前って感じで最悪!表面上の愛想面に騙されて、お前の昔の悪行を忘れておめでとうとか。馬鹿しかいねーのかよ。」    クズが真面目に仕事を始めて成功したらクズは治るのか?答えはありえない、だ。玉ねぎは煮ても焼いても玉ねぎで、色味が濃くなろうが大きさが変わろうが玉ねぎが人参になるわけがない。享楽に耽り淫蕩に呆けていた奴の本質が、そう簡単に変わるわけがなく経験したことは良くも悪くも消えることはない。  クズの本性はクズ。多少行動が変わろうがクズのまま。ましになってもクズを謳歌できていた、その素質までもが消えたわけではない。  「だからなんだ?お前も同じだろ?火遊びをやめて、貿易事業で成功したランコム卿?別に俺は聖人君子に生まれ変わったと騙して歩いてるわけじゃない。」  「ふん、そんなのは分かってる。別に勝手に騙される周りの馬鹿はどうでもいい。」  不快なことにランコムも同じだ。もう苦痛でしかないから夜会に行くことをやめた。アスティが王都を離れたら当てつける意味もない。それを更生したと勝手に解釈された。  ちらついて離れない面影を振り払うために、休みなく仕事をした。報われない思いが苦しくて、ただ目を逸らしたかった。だからできるだけ難しそうな事業を選んだ。それが成功するや周りは勝手に生まれ変わったと褒めたたえた。  いつのまにか最高の婿候補だと追い掛け回されたことを思い出し、ランコムはうんざりとため息を吐き出した。吐き出した息を吸い込んで、気を取り直すとシスルの視線をひたりと捉えた。  「……アスティは喪が明けてまだ2年。娘もいる。どう考えてもアスティが再婚に了承するわけがない。お前がアスティの意思を無視して妊娠させない限りな!!」   意図的に断れない状況を作り出したんだろ?言外に伝えたランコムに、シスルはニヤリと口角を吊り上げた。確信犯だ。  ゴミを見る目で睨みつけるランコムに、シスルは顎をそらした。誇らしげにさえ見える態度に、ランコムは嫌悪をつのらせた。  アスティの気持ちや立場より、自分の願望と欲望を優先する。シスルはただアスティが欲しいからそうした。  それを馬鹿どもは運輸路事業で成功し、長らく独身でいた男の結婚に祝いを述べる。ランコムに言わせればアスティとの繋がりのためだけに仕事をし、アスティを拗らせて勝手に独身でいた男ってだけだ。これのどこがめでたいのか。  眉根を寄せるランコムに、シスルは取り繕うのをやめ目を細めた。  「だからなんだよ?アスティは俺との結婚を了承した。もう婚姻は成立している。アスティはもう俺の妻だ。」  薄く笑ったシスルの瞳に、仄暗い執着が透けて見える。底冷えするような眼光に、ランコムは呆れたように肩をすくめた。  「気の毒なことにな。今も昔も立派なクズとの結婚を了承させられた。いつまで妻でいてくれるか見ものだよ。」  「負け犬の遠吠えか?」  「はっ!惚れた女の弱みに付け込む卑怯者になるくらいなら負け犬で結構だ。」  「……っ!!」    ぎりっと奥歯を噛みしめたシスルを、ランコムはせせら笑った。さすがに自覚はあるらしい。  「お前はマクエルじゃない。なれるわけがない。」  アスティの前夫の名前を出したランコムを、シスルが血走った眼で睨みつけてきた。その過剰な反応を嘲笑うようにランコムは畳み掛けた。  「俺がアスティを諦めたのはマクエルだったからだ。だけどお前なら諦める理由はない。せいぜい寝取られないように気をつけろよ。」  マクエルは粗探しが無駄な清廉潔白な紳士。対してシスルは見せかけだけを整えた単なるクズ。勝てない道理はどこにもない。  「……粘着野郎が!アスティは俺の妻だ!二度と誰にも触れさせない!!」  「言ってろよ、クズ野郎!決めるのはアスティだ……じゃあな!」  ランコムは怒り狂うシスルを背に、ひらひらと手を振って立ち去った。いつぞやとは逆の光景にくつくつと笑いがこみ上げる。  (……まあ、せいぜい猫でも被ってクズがばれないように必死に足掻けばいいさ)  まるで競い合うように場数ばかり増やして、勲章のようにそれを誇っていた。アスティが唯一と気付いた時には、自分たちでは逆立ちしても勝てない男に嫁いだ。  (……もっと早く覚悟を決めてたら、シスルじゃなくて俺だったかな?)  見上げた夜空にランコムはため息を吐きかけた。シスルがどれだけしつこく、どれだけ努力したか理解はできる。自分もこの10年似たような道を辿った。それでも思う。再婚相手にシスルはない。  (あいつ、やらかさないかな……)  そうなればアスティは、今度こそシスルから永遠に去る。だからシスルは、全力で猫を被っているはず。猫が剥がれ落ちればいい。  馬鹿みたいに遊び惚けた中の唯一。比較対象がやたらとあるからこそ分かる、替えがきかない特別な女。  ランコムにとってアスティはそういう女で、それはシスルも同じだろう。だからこそやらかしに期待は薄い。猫を剥がそうにも、剥がすためのマタタビはアスティだから。他のマタタビ()に反応しそうにない。  シスルはそれこそ死ぬ気でアスティにだけは、嫌われないようにするだろうから。失えばどうなるかお互い思い知っている。  他人なんて心底どうでもいい。そういう奴が執着し、本気で囲い込めば付け入る隙はできない。なんせクズなのだ。他人から掠めとる手段も心理も、実地込みで熟知している。現にシスルはアスティに結婚を了承させた。  アスティの隣でクズがバレないように、ギリギリのラインを探ってる。嫌われないように、逃さないように。それがひどく妬ましい。  「アスティ……俺もさ、そういう苦労がしたかったよ。貿易品目とか種別とかじゃなくて。」  そっと吐き出したランコムの声はひどく柔らかく響き、俯いたその足元に切ない余韻を残して消えた。  恋より先に快楽を知った。関係は夜を共にしたら築かれていくと思っていた。遅い初恋を認めることから逃げ回り、ようやく認めた時にはもう手遅れだった。そうしてすっかり拗らせた初恋は未だ色あせない。  「ねぇ、アスティ……まだ好きなんだ。俺は再婚なんて我儘言わないよ。隣にいるだけでいいんだ……はぁ……シスルが目の色変えて殺しに来るだろうな……本当に死ぬほど邪魔で目障り……」  今でも思う。ぐずぐずとプライドを捨てられなかったランコム。なりふり構わず縋りついたシスル。  取繕わずに愛を乞い求めていたなら、結果は違ったかもしれない。少なくともシスルよりは、自分のほうがましなのだから。  初恋を拗らせまくった男は、体ではなく心を深く満たされる快楽があることを、それからずいぶん経ってから知ることになる。  もう一人のクズ男は、それからも気が済むまで盛大に拗らせていたため、かなりの晩婚となったのだった。    
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