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「分かん……ない」
戸惑いつつぽつりと答えた結に、八緒はさらに詰め寄る。
「あのね、結。私はあなたに幸せになってほしいの。いつか私から離れても大丈夫なようにね。圭佑くんはとてもいい子よ。だからきちんと考えなさい。あなたが誰と幸せになりたいのかを。いつまでも子供の頃と同じようになんて、いられないんだから」
分からない。どうしてこれまでと同じではいられないのか。これまでずっと圭佑を好きだと思っていた気持ちは変わってしまうのか。変わるとするのなら、どんなふうに変わっていくのだろうか。
だけどそう思う一方で、結にもぼんやりと分かっていた。周りの大人はみんな、誰かと夫婦となってほかの異性とは違う顔を相手に向けている。それは結を含めた子供たちにはない、大人の顔だった。
自分がそんな顔を向けるのは誰だろう。今はまだ想像もつかないけれど、圭佑なら嬉しいと思える。そんな気がした。
「うん……。でも今はまだ、やっぱりよく分からないよ」
迷いながらも正直に答えた結に、八緒はふわりと表情を緩めてその頭を撫でた。
「ごめんね、結。まだ早かったね。……ゆっくりでいいから。きっとあなたにも分かる日が来るわ」
まだ子供のままでいても大丈夫と、頭に置かれた手の平が言ってくれているようで安心する。
大丈夫、まだ考えなくていい。母さんから離れることなんて、まだ考えなくても大丈夫。
圭佑のことをどう思っているのかよりも、八緒の言葉の方が気にかかっていた。『私から離れても』。そんなことはいつかの遠い将来のこと。今はまだ考えたくなかった。
「ねぇ、母さん。母さんはわたしのお父さんと会えて幸せだった? お父さんのこと、好きだった?」
重くなってしまった空気を軽くするように、明るく言う。これまで父親の話はあまりしなかった。ただ、父親は亡くなったと幼かった結に話したときの八緒の顔が辛そうだったことをよく覚えている。父親のことを知りたいと思っても、その時の八緒の顔を思い出すとなかなか口に出せずにいたのだった。
だけど今なら。死んだ父親の話ではなく、その人に向けた八緒の思いを話してくれるのなら、聞ける気がした。
「もちろん、とても好きだったわ。一緒にいられるのなら、何を捨てても構わないと思えるほどにね。それくらいにとても幸せだったのよ」
そう話す八緒はとても綺麗だった。友人に『結ちゃんのお母さんって綺麗だね』と言われたときに感じるくすぐったい嬉しさではなく、結はまるで憧れるような心地で母を見ていた。
父のことを想う母は言葉の通りとても幸せそうで、結はいつか自分もそんな風に想える人ができるのだろうかと思った。その相手は圭佑だろうか。今はまだ、想像もできないけれど。
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