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結婚
圭佑が戻ってきてから一年。真舟村に再び春が訪れようとしていた。
「結。準備できたなら、早く寝なさい。明日は忙しいんだから」
「はーい。もう少しで終わるよ」
八緒に言われても、子供扱いしないでなんてもう思わない。こんなことを言われるのも、もう最後かも知れないのだ。こんな簡単なやりとりが楽しかった。そう考えると今度は、もっと甘えておけば良かったなんて思ってしまう。
明日、結は圭佑の元に嫁ぐ。一年前に気持ちを伝え合ってから、幾度となくこんな日を夢見た。
ひとりとひとりがふたりになり、家族になる。毎日、圭佑の隣りにいる生活。それがいよいよ現実になると、結はまるで夢の中にいるようなふわふわとした心地でいた。
しかしそれが同時にこれまでの八緒とふたりきりの生活の終わりだと、今になってようやく実感を持ち、ぽっかりと穴が開くような寂しさを感じていた。
兄夫婦も暮らす圭佑の家に結まで住むことはできず、圭佑がこの家に来ることになっている。圭佑と結婚しても八緒と離れずに済むことに、結は安心と同時に嬉しく思いながら、それでも今までのように八緒に甘えてはいられないと、覚悟を持つ心地でもいた。
「……母さん」
「なぁに、結」
こんな風にふたりだけで過ごすのも、今晩が最後。そう思うと、伝えたいことはたくさんあった。気恥ずかしくてなかなか普段の生活の中では口にできないこと。だけど、どうしても伝えておきたいこと。
「あのね、わたし……。母さんの娘で良かった」
ゆっくりと言葉を紡ぎ出す結に、八緒も体をこちらに向けてまっすぐに結を見た。
「母さんはいつも優しくて暖かくて、わたしのことをすごく大切にしてくれて……。わたしね、いつか母さんみたいな『お母さん』になりたいって思ってるんだよ。だって、わたし……、母さんの娘だからこんなに幸せなんだもの」
話しながら涙が込み上げ、声が震える。八緒と過ごした十五年、色んな思い出があった。特別なことをしなくても、ただ一緒に暮らしていたことが、今はとても大切なものだったのだと分かる。もっと早く知っていれば良かった、もっと大切にしていれば良かった。せめてこの気持ちを、言葉にして伝えておきたい。
「ありがとう、母さん。今まで育ててくれて。本当に、ありがとう」
「結……」
何とか笑顔で言えたと喜ぶ結に、八緒も笑って手を伸ばす。
「わたしもね、結といられて幸せだったわ。本当に、一緒にいられた時間はわたしの宝物よ。……これからは圭佑くんと、幸せになりなさい、結」
頬にそっと触れる母さんの手。仕事をしていても家事をしていても、素早く動く働き者の手。すべすべしたその優しい手が好きだった。子供の頃に熱を出したとき、ひんやりとした手が熱っぽい額に触れるのが心地よかったのを思い出す。
これからはもう、そんなことをしてもらってばかりではいられない。今度はいつか、自分の子供にしてあげる番。だからこそ、してもらったことを全て忘れたくない。嬉しかったことの全て、大事な思い出だから。だから、もう一度言おう。
「ありがとう、母さん」
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