一話 寒がりな幽霊

7/9

17人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
 女はそのまま家を出て行った。俺は泰則と話がしたかった。どうやったらいいか考えている内に湖から浮かび上がる時、水を掻いたことを思い出した。  泰則が風呂に入っている時、浴槽に入って必死になって水を掻いた。チャプンという音が出た。何度か音を出すうちに泰則が気付く。 「千尋……?」  チャプン。 「そこにいるのか?」  チャプン。 「この前の、あれはお前なのか?」  チャプン。 「もう、生きていないのか?」  チャプン。 「俺も死にたい。お前のとこに行きたい」  チャプン、チャプン、チャプン、チャプン。 「行きたいんだ」  チャプン、チャプン。 「行けないのか?」  チャプン……。 「千尋……。でもそこにいるんだろう?」  チャプン。 「いてくれよ。もう黙って、何処にも行かないでくれ」  チャプン。  女が帰って来たのは、三日経ってからだった。どういう訳か泰則の母親も家政婦も皆出かけていた。  女は一人ではなかった。年の頃二十五、六の男を一人連れていた。  淡いグレーの小紋の着物。黒っぽい袴。総髪の白い顔。切れ長の眦が釣り上がった目。真直ぐ伸びた鼻に、薄い唇はへの字。  泰則の書斎に男を案内して女は聞いた。 「お分かりになりますかしら?」  女の言葉に「左様、いるようですね」とその男は頷いた。  男の周囲から立ち上る香気に、俺の体はホワホワといい気分になった。男は抱えていた荷物を解く。標縄やらお神酒やらお札が出てきた。  どうやら女は拝み屋を呼んだらしい。そうか、俺はもう泰則の所にいられないのか。この男に拝まれてあの世に行くのか。泰則にもう会えないのは悲しいが、俺は死んでいるんだし仕方無いよな。  拝み屋がゆっくりと準備するのを、俺は部屋の隅で待った。 「すみませんがコップに水を汲んできて、部屋の四隅に置いて下さい」  男の注文に女が水を持ってくる。男は標縄を取り出して、部屋の中をぐるぐると飾り立てた。配置が良くないとあっちにやったり、こっちにやったり、仕舞いにはコップがよくないと女に取り替えさせた。拝み屋の準備は長々と時間がかかった。  女はイライラして、まだかと急かしたが、 「こういうことには時間がかかります」と、しゃあしゃあと言う。  その内に泰則が帰って来た。部屋にいる男を見て、はっとして俺を呼んだ。 「千尋!?」  俺はそこに置いてあったコップの水を掻いた。  チャプン。  泰則の顔が見る見る安堵した。そして男に向かって言う。 「何ですか、あなたは?」  そこに女がしゃしゃり出た。 「こちらは有名な拝み屋さんなのよ。父の知り合いに頼んで来て頂いたの。ここには幽霊がいるわ。早く除霊して貰わないと大変な事になるのよ」 「幽霊なんかいない。余計な事はするな」  泰則はコップの水を後ろに庇って言い放つ。拝み屋の男が興味深そうに、俺と泰則を見ている。この男には俺が見えるんだろうか。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加