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女はそのまま家を出て行った。俺は泰則と話がしたかった。どうやったらいいか考えている内に湖から浮かび上がる時、水を掻いたことを思い出した。
泰則が風呂に入っている時、浴槽に入って必死になって水を掻いた。チャプンという音が出た。何度か音を出すうちに泰則が気付く。
「千尋……?」
チャプン。
「そこにいるのか?」
チャプン。
「この前の、あれはお前なのか?」
チャプン。
「もう、生きていないのか?」
チャプン。
「俺も死にたい。お前のとこに行きたい」
チャプン、チャプン、チャプン、チャプン。
「行きたいんだ」
チャプン、チャプン。
「行けないのか?」
チャプン……。
「千尋……。でもそこにいるんだろう?」
チャプン。
「いてくれよ。もう黙って、何処にも行かないでくれ」
チャプン。
女が帰って来たのは、三日経ってからだった。どういう訳か泰則の母親も家政婦も皆出かけていた。
女は一人ではなかった。年の頃二十五、六の男を一人連れていた。
淡いグレーの小紋の着物。黒っぽい袴。総髪の白い顔。切れ長の眦が釣り上がった目。真直ぐ伸びた鼻に、薄い唇はへの字。
泰則の書斎に男を案内して女は聞いた。
「お分かりになりますかしら?」
女の言葉に「左様、いるようですね」とその男は頷いた。
男の周囲から立ち上る香気に、俺の体はホワホワといい気分になった。男は抱えていた荷物を解く。標縄やらお神酒やらお札が出てきた。
どうやら女は拝み屋を呼んだらしい。そうか、俺はもう泰則の所にいられないのか。この男に拝まれてあの世に行くのか。泰則にもう会えないのは悲しいが、俺は死んでいるんだし仕方無いよな。
拝み屋がゆっくりと準備するのを、俺は部屋の隅で待った。
「すみませんがコップに水を汲んできて、部屋の四隅に置いて下さい」
男の注文に女が水を持ってくる。男は標縄を取り出して、部屋の中をぐるぐると飾り立てた。配置が良くないとあっちにやったり、こっちにやったり、仕舞いにはコップがよくないと女に取り替えさせた。拝み屋の準備は長々と時間がかかった。
女はイライラして、まだかと急かしたが、
「こういうことには時間がかかります」と、しゃあしゃあと言う。
その内に泰則が帰って来た。部屋にいる男を見て、はっとして俺を呼んだ。
「千尋!?」
俺はそこに置いてあったコップの水を掻いた。
チャプン。
泰則の顔が見る見る安堵した。そして男に向かって言う。
「何ですか、あなたは?」
そこに女がしゃしゃり出た。
「こちらは有名な拝み屋さんなのよ。父の知り合いに頼んで来て頂いたの。ここには幽霊がいるわ。早く除霊して貰わないと大変な事になるのよ」
「幽霊なんかいない。余計な事はするな」
泰則はコップの水を後ろに庇って言い放つ。拝み屋の男が興味深そうに、俺と泰則を見ている。この男には俺が見えるんだろうか。
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