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1.あなたがここにいたら(2009.May)
「これなに?」
「おはなだね、かれてるおはな。おはなさん、バイバーイ!」
薄汚れたピンク色の玄関に、入園式用に植えられたパンジーは既に彩りも形も失い、朽ち果てている。植えただけで満足。何でもしただけで満足、継続することにエネルギーを注げないから、この園は駄目だなぁと思う。同時に完璧でないと思うと少しほっとする。
「ちょっとだけおろすね?」
ジャージのズボンがずり落ちてきたので、途中入園児の菜乃を降ろし、ヒモを結び直す。落ち着いているからもう抱っこは不要だなと思い、菜乃と手をつなぎ、涙の跡を片手で拭きながら、保育室に向かう。
菜乃は入園して3週間目。2才過ぎのよく喋る女の子だ。活動時間は問題ないのだが、昼寝の時間になるとママを思い出して泣くので、菜乃だけ連れ出し玄関あたりを散歩して心を落ち着かせてから眠るようにしている。
金曜日の今日で5日目なので、大分泣き止むスピードも早くなってきた。来週からは散歩なしでも眠りにつけるだろう。
菜乃を西松屋定番のピンクの布団に仰向きに寝かし、おでこをさすったり、お腹をトントンしながら眠りにつかせる。
「ママ……」
目を閉じたまま、寝言のように小声で呟く。菜乃もそうだが、2才になってから入園する子は、言葉もはっきり喋るし、昨日の記憶もしっかりあるから”昨日まではママといたのになぜ私はここにいるの?”と言わんばかりに、切実にママーママーと訴えて泣く。
雨のように次から次に連呼されるママ攻撃にうんざりしてしまう事も正直ある。パートさんに対応を任せたりする時もあるけど、その子との関係を築くために出来るだけ主担任の私が関わるようにしている。
その分、貴重な午睡時間で書類や製作に使える時間が減るので、持ち帰り仕事は増えてしまう。年上の先生には、”もっと人巻き込んで頼っていかなあかんで!”なんて言われることも多々ある。
でも、新入園の子には、少しでも早く園生活をすきになってほしいから、できる限り関わってあげたいと思っている。それが6年目に突入した保育士としてのささやかだけど揺るがない想いだ。
振り返れば5年間はあっという間だった。行事や書類や製作の締め切りを落とさないようなんとかしがみついてきた。本当にできるようになるのかなと疑心暗鬼で始め、練習中も注意してばかりだったのに、本番はきちんとこなしている姿に成長を目の当たりにして感動した鼓笛隊。続くかみつきを防げなくて、保護者に謝って去り際に、またですか、と小声で呟かれた時の大地を揺るがすような全身から力が抜けていく感覚。それでも、自分が休んだ次の日愛しそうに「せんせいー」と寄って来てくれる姿や、毎日の保護者のありがとうございました!の声、年の近い先輩に相談した時「みんなそういうことあるって」と共感的に寄り添ってもらい、彼女の毎日明るく元気に振る舞う姿に励まされて続けてこられた。
菜乃から手を離しても寝続けているのを確認してからその場を離れて、机に向かう。
19人が家庭から書いてきてくれた連絡ノートに今日の出来事を記す。
家庭からの連絡には朝目を通しているが、必要なことには返信をし、給食の量、排便、寝始めた時間を記入する。
夜中咳き込んでいました、と書いてあるノートには、
"園でも咳こんでいましたが、元気そうでした♪今日はクレヨンでおえかきをしました。ゆうたくんは、青色が気に入ったようで、他のお友達が色を変えていても、「ゆうた、あお!」とずっと楽しんで描いていましたよ。フジワラ”
最後に名字を丸で囲み〆て、ノートを開いたまま伏せてノートの山の天辺に乗せる。
よしあき。あおい。まひろ。あやと。れお。
全員男子だ。
日本は、名前だけは、多様性の実現と性差の垣根が無くなったと感じる。名前だけ、形だけ。
あ、人のこと言えないか。
私は凛としない凛花。
日誌を書こうと手を伸ばした時、ひとつの名前が脳裏に浮かんだ。
流樹。るーじゅ。
キラキラネームだが園児ではない、私と同年代の元同僚。
赤の名前通り、太陽のような明るく前向きな彼は、
明日、会う、私のすきな人。
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