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2.アゲハ蝶(2008.September)
恋のはじまりは去年の秋。彼が職場を3月で辞めることを知り、2人とも土曜保育の遅出、園を閉める当番に当たった日のことだった。
「ママ まだー?」
「もうくると思うよ?今頃走ってるかも」
「だいちに あうために?」
「うん、きっと急いでるよ♪」
6時半を過ぎて保育が3才児の大地くん一人になってから、幾度と無くこの会話を繰り返した。最後のお迎えが大体同時刻になればいいが、一人だけになってしまうパターンもよくある。
気にしない子は気にしないが、大地くんのように一人になると待ちきれない子もいた。流石に同じ繰り返しに辟易としていたが、粘り強く一回一回笑顔で対応した。
流樹……この時は愛称のみっつ、と呼んでたな……は、使わない部屋の戸締まり確認に行っていた。
「ありがとうございました!」
スーツ姿のお母さんが慌てて保育室に駆け込んで来たのは6時56分。通園リュックと帽子を被って既に準備万端の大地くんは、ママーと抱きつきにいった。
「おかえりなさい!今日も元気に過ごしてましたよ。ブロック上手に作れるようになりましたよね!さっきまで大きなお家作ってましたよ」
「そうなんです、家でも最近よく遊んでてて」
「ふじ しぇんしぇい、ばいばーい!」
「はーい、また月曜日ね!さようならー!」
早く帰ろうと急かす大地くんとハイタッチして見送った。
「みちゅらが しぇんしぇい ばいばーい!」
廊下の窓を閉めていた、みちゅらが、こと光永先生も笑顔で送り出す。大きな怪我もなく、伝えるべき連絡事項を忘れることもなく、忘れ物もなく、全員を送り出せた最終の日は、無事に終えられて良かったと深い安堵感がある。
大地くん親子が園門から出るのを見計らいながら保育室と職員室の窓の鍵、ガスの元栓を確認して、玄関の鍵を閉めた。7時過ぎになると辺りも暗くなり、冷たい風が吹き、コオロギの鳴き声が涼しげに聞こえる。
「あ、このCD予備ね、渡しておくね」
「あざーっす」
今年は2人とも運動会の音響担当に当たっていた。私が3才児主担任の時に、副担任として1年目の彼が入った事、そのうち同じアーティストがすき、とわかったあたりから仲が良くなった。
運動会でも曲に指定のないところは、できるだけ彼らの曲を入れちゃおう、と盛り上がった。仕事歴は私のほうが2年上だが、私が短大で彼は4大卒の為、同じ年ということもあり、よく喋るようになった。
ツンツンのさわやかショートヘアに、つり眉つり目で一見怖そうに見えるけど、喋ると軽いし、笑った顔が子どもみたいに無邪気。反面、育成記録を書いている時は大きなくっきり二重の目で遠くを見ていて、何故か異世界を連想させられてハッとした。
この時もCDを見つめながら遠くのことを考えているであろう彼の表情を横目で見ていた。
「アゲハ蝶、懐かしいッスねー。僕、この曲からすきになったんスよ。高校の時先輩に片思いしてて、恋心が抑えられなくなっていくあたりが共感してさ。まあ結局フラれたけどな、この前……」
「え、そうなの!?なんで?」
「早く結婚したいから!だってさー。仕事辞めるの彼女に相談せず事後報告だったからか、すんげー怒られて」
「相談しなかったんだ?」
「だって、話したって結論変わらないんだから意味ねーじゃん」
「まあ、そうだけど……。大事なことだから話してほしいと思うけどな」
「はいはい。ふじ先生はどーなん?例の彼氏とは」
「……同じくフラれちゃいました」
「何理由?」
「……重たいって言われた。結婚したいなーとかほのめかしたからかな」
「まーしゃあねぇな。その程度の気持ちだったんだろーな。僕も8年付き合ったけど、結婚は考えられん相手やったもん」
「……」
夏の終わりに2年付き合った彼にフラれてようやく傷が塞ぎかけていたところに、容赦なくかさぶたを引剥がされた気分になった。痛い!けれど心の奥底まで届いたのは、それが真実だったからだろう。
失恋して何人かに電話や会って慰めてもらった。辛かったね、と共感してくれたり、凛花の良さがわかってないんだよ、と味方してくれたお陰で立ち直れた。
でもそれだけでは癒やしきれなかったのも事実。まだなんとなく引きずっているというか、事実を受け止められないでいた。
でも、同じ理由で同時期に失恋した彼の言葉だからこそ、良い所だけじゃなく現実と向きあおうとする彼の言葉だからこそ、言葉が大きく心に響いた。返事ができずにいると、図星でショックだったー?と軽口を叩かれた。
「うん、ショックだったけど。完全に諦められた。ありがと」
「ああそう?まーとりあえず運動会頑張りましょうや」
彼の言葉を持って、失恋を終わらせることができた。振り返ればこの日が恋心の芽生えた日だった。
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