第二章『幸福恐怖症』

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 過去が襲ってくる――。  過去へ葬った怪物が、牙を剥く。  心のかさぶたへ、爪を立てる。  過去は、幸せの絶頂にある瞬間に襲ってくる。    嗤いながら、絶望の深淵へ突き落とす――。  *  「初めて逢った時から、あなたのことをいつも気にしていたんです」  清廉な白百合の花は、黄昏の光を纏って優美に揺らめく。  赤い夕陽に染まった屋上の白いタイルに、二つの黒い影は妖しく佇む。  「ご迷惑かもしれないと承知です。でも、一生最後のお願いです・・・・・・」  夕暮れの屋上へ自分を呼び出したのは、私立百合浜高校の生徒である河田・実里。  確か、特別内科病棟の二〇二病室に入院している患者である宇都宮・雛子の親友で、よく見舞いに来ていた。  宇都宮雛子は、白血病の末期患者であり、医師から残り一ヶ月の「余命宣告」を受けた少女だ。  自分の担当する診療科とは異なるが、精神・心療内科病棟へ行くには、内科病棟の通路を渡る必要がある。  初めの接点は、廊下で立ちくらみに襲われた雛子が床に頭を打つ前に、自分が間一髪支えた事だった。  以降、自分の担当病棟へ戻る際は、毎回必ず雛子と顔を合わせるようになった。  最初は簡潔なあいさつのみだったが、やがて世間話を交わしたり、雛子自身の話を聞いたりする機会があった。  「どうか、雛子のになってあげてください!」  雛子の気持ちには、既に薄々と気付いていたため、驚きはしなかった。  恋を叶えられないまま、残りの人生を終えようとする親友を見かねた河田実里は、無茶な要求を申し出ることも。  闊達で友達思いの彼女の性格から、容易に想像できた。    「ごめんね・・・・・・僕は、雛子さんの願いを叶えてあげられない」  静謐(せいひつ)の瞳に憂いを灯して答えると、実里の顔に悲しみは波紋する。  直後の展開が、自分には既に読めていた。  「どうしてですか!? 雛子のことは嫌いじゃないですよね? ならお願いです! ほんの少しの間・・・・・・いえ一日だけでもいいんです! 雛子を好きになって!」  一度断られただけでは、実里が食い下がらないことも。  「雛子さんは良い子だと思う。僕にはもったいないくらいだし、今時珍しい芯の強い優しい子だと思う・・・・・・でも、僕は彼女の気持ちに応えられる立場ではないんです」  「だったら! このことは私達だけの秘密にして、看護師さん達には黙っていてあげるから! そしたら、怒られないで済むでしょう!?」  先ずは、雛子の人間性を肯定している事実を述べながらも、自分の厳しい立場を遠回しに告げる。  病院の職員が患者と医療を超えた”私的な関係”を持つことは、当然ながら職業倫理に反する。  しかも、相手が未成年となれば、懲戒処分か退職を余儀なくされる。  事情を話せば理解してくれる者はいるだろうが、了承は得られない。  「すみませんが、河田さん。黙っていれば済む問題ではなくて・・・・・・」  雛子の今生の願いに承諾できない理由は、そんな建前でもない。  自分が恐れていることは、そんなではない。    「雛子は私の自慢の親友です! あんないい子が・・・・・・好きな人と最後の時を一緒に過ごしたい・・・・・・たったそれだけの幸せすら、許されないんですか!?」  宇都宮雛子の願いだけは、叶えられない。  自分は、雛子の真っ直ぐな恋心に応える資格のない人間なのだから。  実里が中々納得しないと悟った自分は、畳みかけるしかなかった。  .
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