第二章『幸福恐怖症』

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 「僕にはがいるから・・・・・・他の女の子とは、嘘でも付き合えないんだ」  申し訳なさそうに言い放たれた台詞に、まくしたてていた実里は、遂に言葉を失った。  「とにかく・・・・・・ごめんね」  雛子と実里の切実な想いを考慮すれば、彼女達には辛いだろうが、自分に嘘はつけないのだ。  自分の眼差しと言葉は真剣だ、とようやく悟ったらしく、実里は無言で去った。  今頃、実里の胸には言葉にならない悲憤と微かな罪責感が、糸のように(もつ)れ渦巻いている。  意気消沈した小さな背中を見送ってから、溜息を零す。  「晴斗・・・・・・」  屋上の夕闇から親しみ慣れた、か細い声は聞こえた。  いたたまれなさそうに揺れる気配は、晴斗の背後へゆっくり迫ってきた。  ああ、ちょうどよかった。  「美天・・・・・・」  夕陽を背に振り返った晴斗は、白百合の微笑みを咲かせた。  優しく細められた瞳に映る美天は、泣きそうな眼差しで見上げていた。  *  頭が重い。両眼が熱い。心臓が痛い。  瞳の奥から今にも溢れそうな何かを堪えるのが、精一杯だ。  何故、この最悪の時期(タイミング)に、屋上へ来てしまったのだろう。  どうして聞きたくもない事実へ、耳を傾けてしまったのだろう。  あのまま、立ち去っていればよかったものを。  『僕には好きな人がいるから――』  決して聞き間違いではない晴斗の台詞は、脳内で繰り返し響き渡る。  晴斗の気持ちを聞いた河田実里の絶望と恐怖に慄く表情、去り際に溢れた悲憤の涙は、焼き付いて離れない。  美天は・・・・・・、痛いほど想像できる。  恋する人と結ばれない理不尽。  喪う悲しみを背負わせたくないという、相手への罪責感。  血の滲む努力と我慢の末に、未来すら奪われる絶望感を。  なのに、美天(自分)は最低だ。  「来てくれたんだね、美天」  「うん・・・・・・それより、よかったの・・・・・・?」  「ああ。河田さんのことかい。いいんだよ。こうするのが一番いい」  自分は救いようもないほど、残酷で穢らわしい人間だ。  たとえ振りでも晴斗が雛子の恋人になることを、頑なに断ったことに、心底安心した自分がいた。  雛子の悲嘆と絶望で成り立つ喜びだ、と知りながらも。  「一つ訊いても、いい?」  「いいよ」  「どうして・・・・・・実里ちゃんの頼みを断ったの?」  か細く震えた声で問う美天に、どことなく責められているように感じたのか、晴斗から微笑みが消えた。 .
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