第一章『純美な友』

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 「あの、すみません。一○三号室に入ったばかりの、えっと認知症の高齢男性の方の診療録(カルテ)は、どちらか知っている方は・・・・・・」  「朝比奈さん。探しているのは、こちらですか」  前日入院したばかりの患者の名前を忘れた美天が、ファイル探しに苦戦していた時のこと。  隣のデスクで事務に務めていた小鳥遊は、何気なくファイルを発見してくれた。  棚に押し並べられた膨大なファイルの海から、数少ない手がかりで患者の名前とファイルの場所を、即座に特定したようだ。  「! はい、これです。ありがとうございますっ。小鳥遊さん。よく分かりましたね」  「一○三号室に最近入ってきた患者さんで高齢男性、脳血管性障害型認知症となれば、仲田・康夫さんではないかと思いまして」  「まさか小鳥遊さん、患者さんのフルネームとファイルの場所を覚えているの?」  規模の大きな白百合病院は、一つの診療科病棟にいる患者の数も担当事例も多く、病状や入退院の変動も激しい。  患者全員の名前と特徴を記憶するのは、至難の技だ。  美天も、自分の担当する患者の顔と名前を一致させるようになれたのは、つい最近だ。  一方、小鳥遊はたった一ヶ月で美天と一緒に担当することになった五十人もの患者の基本情報からファイルの位置まで、頭に入っているようだ。  確か入社前に小倉先輩から小耳に挟んだ話では、小鳥遊は某・名門国立大学・医療福祉学部、とPSW国家試験の首席卒らしい。  小鳥遊の高い学歴を鑑みれば、彼の優れた記憶力と情報処理能力の高さも頷ける。    「いえ、まさか。昨日ファイルを整理していたので、偶然覚えていたんです。研修時から、朝比奈さんが丁寧に教えてくれたおかげです」  「そ、そんなことは・・・・・・」  「いつもありがとう。朝比奈さん」  小倉先輩が驚嘆を零す一方、本人は謙遜する。  自分の経歴(キャリア)や能力の高さを鼻にかけず、むしろ周りを持ち上げる。  それも、小鳥遊特有の純朴な雰囲気のおかげか、お世辞や嫌味にはまったく聞こえない。  不意打ちでさり気なく褒められた美天は、照れくさくて反応に窮してしまう。  一方、恥じらいに俯く美天を、小鳥遊は微笑ましそうに、小倉はニヤリと見ていた。  決して天狗にならない謙虚さには、周りだけでなく人見知りな美天すら、強い好感を覚えた。  今まで知る限りでは、高性能(ハイスペック)で人気者な異性は、皆自信に(みなぎ)っており、矜恃(プライド)の高さから他者に厳しく傲慢だった・・・・・・。  そう、例えばのように。  中には謙遜する人もいたが、表に出さないだけでここぞという所で、自己顕示欲を発揮する。  しかし、小鳥遊のように自分の優秀さよりも他者の行いを顧みて、心から感謝を示すのは彼ぐらいの気がした。  ファイルを見つける、ただそれだけの行為を、彼は自分の手柄だとは微塵も感じていないのだから。  「そうでしたか。苦しい気持ちを信じてもらえなかったのは、辛かったですね・・・・・・よろしければ、こちらで、数分だけでもお話しませんか」  小鳥遊は器用さと頭の良さだけでなく、PSWとしても豊かな素質と人間性にも富んでいた。  とある壮年の男性患者が誇大妄想と被害妄想の激しさから、時折叫びながらドアノブを蹴る問題行動を、小鳥遊はやんわりと(なだ)めたことがあった。  自分よりも大柄で腕力も強く、大声量で怒鳴り散らしてくる相手に美天のような若手職員が萎縮する中、小鳥遊は温和かつ毅然とした態度を貫いていた。  他にも、帰宅願望が強く無断で院外を徘徊するアルツハイマー型認知症の高齢女性に対し、散歩という形で話し相手になり、機嫌を直した本人をさりげなく病室へ送ったこと。  退院希望の患者と、退院断固拒否の家族との(いさか)いの仲介と双方の利害一致を整理する面談でも、小鳥遊の寛容さは最適な円滑油となっていた。  小鳥遊に独特の、静穏な佇まいに寛容な眼差しは、相手の激情を和らげる不思議な雰囲気を醸しているのだ。  「小鳥遊君って、本当に気が利くし助かるわ。こっちの仕事も、さりげなくフォローしてくれるわよね」  「しかも、うちらと違って、嫌な患者の悪口とか不満とか一切零さないものね」  「今どき、あんなに素直で思いやりのあるしっかりした若者がいるなんてねぇ」  基本的には、四六時中多忙な病院内で職員が奔走する中、小鳥遊は周りへの気配りも欠かさない。  デスクに溜め積みした書類の整理や洗濯物、食事の遅い患者の下膳、食器や器具洗いまで業務の片手間に、さりげなくこなしてくれるのだ。  おかげで、雑然としていた事務所のデスクや水場も、以前よりさっぱり清潔・整然とした。  「頭も良くてルックスも綺麗で、しかも優しい。何よりも若い! あんな男性、息子としても彼氏としても最高だわ」  「やっぱり、恋人はいるのかしら」  まさに、頭脳も人徳も才色兼備である小鳥遊晴斗は異彩を放ち、同僚にも患者にも慕われた。  天は二物を与えず、というのは小鳥遊に限って当てはまらない。  基本的に他者や噂には無関心な美天ですら、小鳥遊には惹かれる魅力を感じた。    異性として恋愛的な深い意味ではなく、人としてという意味だが。 .
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